エゴイズムの時代(3)
さらに続く。
それでは、エゴイズム(自己絶対主義)でもなく相対主義でもない生き方とはどのようなものだろうか。
それは(3)「その時々で相手が敵か味方か、瞬時に決定していく」のをもう一度とらえ直すしかないように思える。
すでに述べたが、この生き方は現代社会に対して、理想的な生き方である。
問題は常に自分を絶対化しないで(エゴイズムに陥らないで)相対的に保とうとするバランス感覚である。(相対主義は「相対主義」という名の自己絶対主義=エゴイズムである。)
例えば、丸山圭三郎は『徹底的に価値を相対化し続ける動的な相対主義』と言っているが、まさにこのような態度を存続させるバランス感覚をどこに見いだせばよいのか。例えばICUのキリスト教概念は次のように述べられている。
(前略)信仰は神の前で自己と人間の営みを徹底的に相対化する。キリスト教信仰は、人間が自己の知的活動によって世界の支配者となることも、又反対に、学問の中に持ち込まれる特定の価値観の絶対化による服従をも退ける。信仰は認識対象の絶対化もしくは世界の特定部分の神格化から研究者を自由にすることによって、かえって批判的な知の形成に寄与することが出来る。
特定の価値観を絶対化することなく学問を行うということは、人間と社会の現実を醒めた目で見るということである。それは一方においては人間の悲劇的現実を直視することであり、他方においては神が世界の主であるとの信仰に基づく人間性回復の希望からこの現実を直視することである。約言すれば、人間をその悲惨と偉大の両面において認識すること、批判的精神と人間愛を持って学問を行うことである。従って、キリスト者の学問の姿勢には大学共同体における実践に向けての関心が存している。
(「ICUのキリスト教理念検討委員会最終報告」、1994.)
これは、学問についてのみ言えることではない。信仰を持つことは自分のアイデンティティーを確立すると共に、そのアイデンティティーを神の前において相対化する。
これは神と人間との不連続生がハッキリしているキリスト教の特権なのかもしれない。例えば仏教の場合、その信仰は「空」という場において、徹底的に相対化されるか、あるいは「神人一体」として、徹底的に絶対化されるかどちらかしかない。
そのことを考えるとキリスト教者は恵まれている。しかし私がこのような主張に対し納得しつつも、ある反発を覚えるのは、このような考えがあまりにも健康的すぎるからである。
「生きている価値が無い」なんてのは人間の傲慢だね
価値で生きているなんて思っちゃいけない
人間はそれほど偉くはありません
(今岡忠彦、「ある日のアフォリズム」)
私を支えているのは、キリスト教の信仰ではなく、このような考えである。
この詩人はアイデンティティーの不在を高らかに宣言している。つまり絶対主義を否定している。
もちろん、この言葉の後に「弥陀の本願により生きている」や「神によってのみ生きる」と信仰につながることを言うことも可能である。
しかし、この詩人はそれを許さなかった。ただ「人間はそれほど偉くはない」という言葉を放り出してしまった。
詩人のとった道は超越者の一歩前で止まり「何ゆえ私は生きているのか」と問い続けるという道だった。おそらくこの詩人の問いに対して答えは三通りしかない。
第一に何らかの信仰の道に入り、確かな支えを選ぶこと。
第二に「にもかかわらず生きている」と開き直って単なる生肯定主義に向かうこと。
第三に「人生とは何か、曰く不可解」として狂気か死の道を選ぶこと、この三通りである。
これらの思想はエゴイズムには見られなかった他者という限界に突き当たってこそ得られるものである。
まさに柄谷行人の言うように、他者とは端的に言えば、自分とは不連続なものである。
つまり敵ではなく異なるものである。これは敵のように自分の利害関係やアイデンティティーをかけて対立するものではなく、そのようなアイデンティティーを無化する存在である。
このような他者は、ある時に現れるのではない。常に我々の前に現れている。ただエゴイズムがそれを見えなくしているだけだ。しかし、他者と向かい合ったこれらの思想もそこで完結している。
つまり、いずれにせよ、充足した、安定した道である。そこではバランス感覚は、最後の結果が死であるにせよ全うされる。
しかし、詩人はあえて、この問いに答えることはなく問い続けるという態度をとった。そこには充足も安定もない。ただ、無限に問いを発し続けるだけである。答えを出そうと思えば、上記した選択肢から、導けるであろう。そして安定した健康的な道を選べるだろう。
しかし、詩人はそれを避けた。いわば常に他者に対することを選んだ。理由は分からないが、そのような不健康さを私は愛して止まない。
もし、このような不健康さに救いを見いだすとしたら、やはり他者においてしかない。それは、浄土真宗のような絶対他力ということではない。そのような安定したものではない。
そうではなく、世界が共同的であることに救いを見いだすしかしない。つまり、世界とは私と他者がお互いにアイデンティティを無化するような危うさを隠すためのエゴイズムによって生まれたというところに救いを見いだす他はない。
換言すれば、我々は価値で生きているわけではないが、世界に価値が生じているのならば、徹底的にその価値に乗るという方向である。
だからといって、ただその共同性だけを絶対の価値としたなら、ファシズムや衆愚主義に陥ることは疑いない。
だから同時にそのような共同性を無化しなければならない。それには単なる反発ではなく、共同体に還元されないような「しこり」を内部から与えることによって共同体を壊すのではなく、ずらすという方向しかない。
「問う」立場は他者に問うと同時に、自分にもその問いが返ってくる。
共同体への問いは常に私への問いである。共同体の価値に身を置いたまま「問う」とはそういうことだ。
『価値で生きているなんて思っちゃいけない』、その言葉は「何も背負わない軽さ」という重荷となる。
にもかかわらず、価値は生じているのだ。
何故だ。何故だ。何故だ。
その問いは他者に向けられていると共に自分にも向けられる。
共同体の中に還元されない「しこり」とはそのような問いかけのみである。その問いかけに対して答えを出した瞬間からエゴイズムの罠に陥ることになる。
しかし「問う」立場は、「問題」を発する立場とは区別される必要がある。我々の周りには、様々な「問題」があふれている。
「アイデンティティーの危機」「家族関係の崩壊」「人間的倫理」などなど。
そもそも、この論も「複雑なシステム」という、問題の上に築かれているものだ。
しかし、「問題」は共同体に「しこり」を与えない。共同体の構造を強めるだけだ。
「問い」に価値を置いたとき、それは「問題」に変わる。そして、それは共同体の価値構造を強める。「問い」はそのような価値そのものを根底から疑うものだ。いわばエゴイズムによって自分のものとした価値を、もう一度私と他者の「間」に戻そうという立場である。
私と他者の間には何があるだろうか。多分何も無い。
いや、無かった。そのとき、私たちはどのような生活をしていたのだろうか。
この「問い」に対して、エンゲルスのごとく「人間は最も集団的な動物である」と説明すれば、「問い」は意味をなさなくなる。原初より私と他者との間の深淵などは存在していないことになるのだから。
しかし、そのようにして集団性を生得的なものとしたとき、我々はもう一つの「問い」に突き返される。つまり、この複雑な現代社会をどう生きたらいいかということだ。
ただ集団性に身を任せていては、恐るべき分裂症城を起こすだろう。
かと言ってエゴイズムに閉じこもっていても意味がないということは既に述べた。
「現在」とはいわば「集団性」や「共同性」といったものが生みだした価値が、次々に折り重なり複雑なシステムを作り上げたため、私と他者との間の空虚さが逆説的に見えてきた時代なのである。
だからこそ、我々はこの空虚さを埋めるために、共同体の価値に乗りつつ、酔いつつ、その価値を「問う」という矛盾した態度をとらざるをえないのだ。
私は社会の統一性を認めないわけではない。「現代社会の複雑性」と言ってみたところで、それで何も解決はしない。それはエゴイズムに裏打ちされた相対主義に過ぎない。
しかし、社会の統一性を認めるとしたら、私と他者の間の深淵の上に成立してのみのことである。
私は社会が自然にまとまっていくというような、いわば[成るように成る」というオプティミズムを信じてはいない。しかし、具体的にプランを立てて変革していこうとする考えも信じない。価値を至上のものとする限り、それは共同体の構造を強めるだけだ。
その変革がたとえ成功したとしても共同体の看板が変わるだけだ。共同体そのものは変わりはしない。
それに、このような複雑な時代に誰が変革という言葉を信じるのだろうか。「呼びかける」立場は、結局他者と自分とが一直線上にあるというオプティミズムでしかない。
このような人たちは「呼びかけ」が失敗したとき、「誰も分かってくれない」と言う。事態は全く逆であり、誰もが「分かっている」からこそ「呼びかけ」が失敗するのである。
呼びかけているものは自分の価値を至上のものとして呼びかけているが、誰もがその呼びかけに応じないのならば、価値など存在しない。理解されなければ、それは自己満足のモノローグに過ぎない。
仮に一部の人に共感を与えたとしても、それは小さな共同体をつくるだけの話だ。
もし本気で呼びかけようとするならば、多くの人の共感を得るような「戦略」を用いればよい。しかし、そのような「戦略」は「扇動」とスレスレのところにあるだろう。結局、それは「呼びかける者」が最も嫌悪する絶対主義に過ぎないのではないか。
「問う」立場は流行を追いかける立場によく似ているだろう。「流行」とは、最も直接的に共同体の価値を反映する場である。
しかし、現在では「流行」がシステムの複雑さを反映して、非常にその期間が短くなっていることは言うまでもあるまい。「流行」に価値は存在しない。もし存在しているとすれば流行しているが故の価値なのである。
そこに価値を見いだそうとした瞬間、流行は逃げている。
流行を追いかける者は、流行の価値が空虚なるが故に、それを追いかけている。流行を追いかけている人が社会システムの複雑さを追いかけているにもかかわらず、分裂症に陥らないのは、どこにも価値を見いだそうとしていないからである。これは一般論だ。
「問う」立場も、これとよく似ている。
「価値」には乗るけれどそれを守る気もない。ただその価値を問うだけだ。流行を追いかける者が軽薄に見えるように、「問う」立場も軽薄に見えるかもしれない。
しかし、「問い」が私と他者の間の深淵に投げかけられたとき、それは軽薄なものとは成らない。
なぜならその「問い」は私と他者の両方に投げられているからだ。「問い」の答えは永久に分からないだろう。
ただ、その間の危うさを隠そうと、私は他者との間の深淵を隠そうとするだろう。そして、他者も“おそらく”深淵を隠そうとするだろう。
このような危うい信頼関係の上に人間の価値は成り立っている。
そこには敵でも味方でも第三者でもない「他者」との信頼関係が築かれている。
「問う」立場とは、このような危うさに直面したまま、その危うさを他者と共有し、複雑になった社会システムを少しづつ解きほぐしていく立場である。
共同体に組み込まれてファシズム的になることもなく、なおかつエゴイズムにも陥らず、しかも神によらずして、世の中に対して積極的に生きようとするならば、このような危うい綱渡りをするしかないのだ。