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比喩について(2)

 比喩とは、対象とされる相手によって、その性質が変わるということは以前に述べた。

 しかし、どのように性質が変わるかということに関しては、いささか説明がたりなかったような気がする。
 前回の論では、対象とされる相手が、閉じた共同体であることを前提としていたので、なぜ比喩が使われるのかということその比喩が、社会と個において、どのように成立し得るか、もう少し具体的に考えてみたい。

<物語>とは何か? 

 <物語>という概念がある。一般的に語られる”story”の意味では無く、社会において、無意識的に皆が納得して、通用しているものという感じでの意味だ。
 通説、とか、”お約束”、”テンプレート”あたりの使い方が近いであろうか。
 もう少し、感覚的なものではあるが、例えば「桜は舞い散る」ものであり「夢は翼を持ってはばたく」ものなのだ。
 あるいは「子供と遊んでいる子犬」と書くと、幸せな<物語>を連想しがちだ。
 しかし、これは犬目線で語られたもので、実際には「赤ん坊をかみ殺した土佐犬」の話かもしれないということだ。

 さて、この<物語>の成り立ちを、比喩を通して、考察してみよう。

<物語>が壊れる時、<喩>は生まれる

 前提となるのは、<共同体>内での関係は、普通は安定しているということだ。
 問題は、例えば個人的な体験をキッカケに、そのような安定した関係が異常をきたし<物語>が崩壊したときに起こる。

 個人的な体験によって、<物語>が壊れた場合を想定してみよう。
 そのような体験をした者は<物語>にある「違和」を感じる。
 そこで、そのような「違和」、言い換えれば自分の手に入れたリアリティーを<喩>を通して、相手に伝えることによって、相手との共生を図ろうとする。
 そして、そのような<喩>が通じた時、つまり共感を呼び起こし、相手に自分と同じ「違和感」を与えたとき、この<喩>は成立する。

 去年のあなたの想い出が
 テープレコーダーから
 こぼれています
 (中略)
 人ごみの中を縫うように
 静かに時間が通り過ぎます
 あなたと私の人生をかばうみたいに
 (さだまさし「精霊流し」)

 この歌詞は、作者のさだ本人の従兄の水難事故死をキッカケにつくられている。
 同年代の親戚の若すぎる死というリアリティーに際して、ただ死を悲しむもの、怖れるものとして受け止めることは難しい。

 だからこそ、「人ごみの中を縫う」という、障害物がありながら、それをよけつつ、目的地にゆっくり進むというそんな「時間」が必要なのだ。
 それは、亡くなった従兄の恋人をなぐさめると共に、さだ本人の心をなぐさめるものであろう。
 ただ単に「時が解決する」と言っても、死のリアリティーは解消されない。

 もう一つ、言葉ではないが<喩>的なものがある。メロディーだ。
 美しいバイオリンから、始まるこのメロディーは物悲しく、死を弔うにふさわしいと言ってもよいだろう。
 しかし、ここで歌われる”精霊流し”とは、長崎で行われる盆行事で、爆竹やら、花火やらで、非常に賑やかなものなのだ。
 だが、そのような騒がしいメロディーではなく、静かなメロディーにしたのは、死を悲しむ感情を<喩>としてのメロディーにのせたからである。

<喩>は<物語>に変わろうとする

 さて、この次の段階として、社会との「違和」の共生は成功したが、まだ「違和」の感触だけは残っており、それがある意識的<共同体>を形成している場合が考えられる。

 これに関しては俳人の中原道夫が面白い例を挙げている。

 茶の花に押しつけてあるオートバイ  飯島晴子
 紅梅に片寄せてあるオートバイ  川崎展宏
 夜桜に寄せオートバイまだ熱し  奥坂まや

この3つの俳句は同時代にできたもので「花」という自然的なイメージに「オートバイ」という無機質のイメージを衝突させる、像的な<喩>の景である。
 しかし、このような<喩>がもつ意外性という「違和」の感覚が個的なものではなく、類型としてそれぞれの俳句に投影されている。

 ここでは<喩>は個から<共同体>と言う方向が弱まり、いわば<共同体>での基礎知識的なものとして<喩>が成立している。
 たとえば、J-POPジェネレーターなどを試してみれば、何となく実感できるのではないだろうか。

自動的に歌詞を作ってくれるサービスだが

なお、本サービスは、
翼広げすぎたり、
桜舞いすぎたり、
瞳閉じすぎたり、
君の名を呼びすぎたり、
会いたすぎたりしますが、何卒ご容赦願います。

という一文が、端的に物語っている。

<喩>は<物語>となる

さて、共通認識的な<喩>は、さらに<共同体>の中に入り込むことによって「違和」を感じさせないほど、常用形式的なものとなる。

汽車を待つ君の横で
ぼくは時計を気にしてる
季節はずれの雪が降ってる
「東京で見る雪はこれが最後ね」と
さみしそうに 君がつぶやく
(伊勢正三「なごり雪」)

 なごり雪は、もともとは「名残の雪」という言葉で、「春になってから降る雪」よりは、「春になっても残っている雪」の方の意味合いで使われることが多かった。
 しかし、この歌の流行により、後者の意味合いは少なくなり、「残っている未練」などの意味合いよりも圧倒的に「すぐに消える儚さ」という意味が強くなった。

 この時、すでに、個と社会との「違和」の感触は消え、逆に<喩>によって隠蔽されている。
 そして<喩>は<物語>となる。

<喩>は過剰性を増す

 ここで<喩>の進化が終わったわけではない。<物語>が破壊されずに残されている場合でも。「違和」の感触がある場合がある。

 つまり<物語>内にあるまま、「違和」を表現しようと場合、<喩>として変換されずに、おそらく、それは過剰性を増し<虚構>として提出される。

途(みち)に倒れて だれかの名を
呼び続けたことがありますか
人ごとに言うほど たそがれは
優しい人好しじゃありません
(中島みゆき「わかれうた」) 

 「道に倒れて、誰かの名を呼び続ける女」を現実に目にしたら、正直に言って見なかったことにして、立ち去るぐらい怖い光景である。
 しかし、この歌は「女の弱さ」という<物語>に残ったまま、ある「別れ」の感覚を歌おうとしたため、<喩>が過剰性を増し、それが上記したような<虚構>の女を生んだのである。

 以上、個と社会の関わり合いを、<物語>の成立と<喩>の進化という観点から論じてきた。

 あくまでも、これは<喩>の味方の一側面に過ぎないが、このような見方で、最近の歌の歌詞などを見るとあらたな発見があるかもしれない。

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武@ニイガタ
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