怪を語ることの流儀
怪談などを集めていたりしていると、怖い怪談にはかなりのレトリックが使われていることが分かる。
比喩表現、倒置法、反語、反復、擬音などが、巧みに織り交ぜられている。
それは、話のクライマックスに向かい、いかにして盛り上げるかというためのもので、最初は静かに日常から始まり、徐々に怪の世界へと足を踏み入れていくというものが多い。
これが、いきなり怪が始まったら、ただの交通事故と変わらない。
もっとも、そのような話も、最近は多くなってきた。
道端を歩いていたら、いきなり異形のものが襲ってきた、というもので、これはこれで因縁とか、理由がない不条理の怖さがあるが、怪談とは別の類の恐ろしさではないかと思っている。
襲ってくるものが怪物である必要が無く、シャブ中の通り魔であっても、怖さの質は同じであるからだ。
なんというか、昭和の時代に、普通の写真に写った岩のくぼみを見て、人の顔に見える心霊写真だと怖がった感覚とよく似ている。
仮に、岩にリアルに人の顔が見えたとしても、その怖さは怪談の怖さではない。風情がまるで無い。
怪談は結末よりも、そこに至るまでが重要であり、それこそが流儀であると思っている。
(ここまでで10分)
お読みいただきありがとうございます。 よろしければ、感想などいただけるとありがたいです。