生理の貧困から思い出した「貧困マウント」の話(上)
好きなだけ貧困・不幸マウントしていいじゃない。だって「永遠に報われない」んだから。
マウントの応酬していいじゃない。それくらいしか自分の過去を認められないんだから。
母子家庭育ち。米軍だった父は養育費等一切残さずに蒸発。連絡先も不明。沖縄あるあるの母子家庭である。
兄は重度障害者。母は中卒で美容師免許を持っていたが、ホテルの清掃の仕事のみで(無論非正規社員)私と兄を養っていた。
兄の持病のてんかんで月2回の通院。車なし。なのに母は行政手続きが苦手なので、生活保護でもない。(詳細は不明だが、祖父母が家庭菜園の野菜などを援助していたためかもしれない。)
沖縄で親戚が周りにいて、たまに車を出してくれたのでなんとか生活できていた。(母親は運転免許を持っていなかった。)ちなみに自転車は家になく、私は今でも自転車に乗れない。
高校・大学共にに実家から一番近い公立。幸い成績は良かったので(勉強以外にすることがなかったのと、みんな持っていた携帯電話を持っていなかったから)
地元の国立、琉球大学に入学する。
当時(2005)大学生はパソコンの所持が必須だった。手書きのレポートは認められず、印刷しなければいけなかったからだ。まだガラケーの時代、担当教員から連絡事項がPDFで来て、ガラケーでは見られないということもあった。
私は近くの家電量販店で、ラヴィLというパソコンを自分の合格祝金で買った(17万円)
しかし入学金30万の免除申請が通らなければ、うちには貯金がないので入学することは出来ない。結局親戚3世帯から10万円ずつ借り、バイトをして月一万円、計三万円ずつ返した。
当時インターネットは従量制。使ったら使った分だけ通信費がかかる。
大学のWi-Fiならただなので、私は毎日大学で夜中の1時ごろまで(バイトが終わるのが午後10時なのでそれから3時間ほど)勉強したりレポートを作ったりしていた。
学費に関しては奨学金は借りなかった。第一次氷河期世代のいとこの話を聞いて、「琉大でても就職出来ないと奨学金だけ残って自己破産だよ」と脅されていたからだ。
幸い国立は比較的安く、前後期合わせて64万円。普段のバイトと、夏休みなどの短期バイトを併せて、限界まで生活を削れば払える金額だった。
しんどかったのは車の維持費。
ご存知の方も多いかもしれないが、沖縄には鉄道がない。「バスがあるじゃんw」はエアプである。私の実家(読谷村)から琉大まではバス3台を乗り継ぎ、2時間半。片道バス券を買っても1000円以上かかるのだ。
自家用車の方が維持費、ガソリン代、車検代を入れても日に2000円は流石にかからない。
そんなこんなで無理矢理大学を卒業した。(正直大学生の頃の記憶があんまりない。バイトして、成績だけは無理矢理保っていた記憶しかない)
卒業後待っていたのは、リーマンショック後の第二次氷河期であった。もちろん私も100社以上の圧迫面接を受け、なんとかブラック学習塾に正社員で採用されるも、朝7時から朝3時まで20時間働くのを2ヶ月続けた結果、過敏性腸症候群になり退職。
メンタルボロボロで教員採用試験を受け、8位/176人中だったにもかかわらず、一次試験落ち。
貯金ゼロになった私は、コールセンターの夜勤(非正規)をすることにした。
沖縄で一番時給がいいバイトは、コールセンターの夜勤なのだ。それでも2012年当時、時給は1300円。同期に入ったバイトは半年と持たず23名全員辞めていった。
コールセンターでは個人攻撃、罵倒、2時間ずっと「申し訳ありませんでした。」と謝り続け、相手のループする怒りを受け流すのは日常茶飯事。
朝6時上がりだったが、電話が続けば残業。そんな残業も「お客様を落ち着かせるトーク術がないから。自己責任だよ。スキルを磨いて相手が自分から電話を切るように仕向けなさい。」
1986年生まれがずっと言われ続けた「自己責任論」である。
下に続く
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