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祖父母の死

 死と向き合うとき、人生を考える。いつ向き合うか、自分では選択できない。娘が祖父を送ったのは十五、祖母は十七だった。
 私の祖母が脳卒中で倒れたのは四歳のとき。東京に手伝いに来ていた。「おばあちゃん台所で寝てるよ」勤めから帰った母に私はそう言ったそうだ。それから幼稚園が終わると一人で病院まで三十分歩き、付き添いのおばさんと過ごした。介護保険はまだない時代。体位変換などの世話は自費で付き添いさんに頼んでいた。
 病室は一人部屋だった。ラジオもない。退屈だ。おばさんはすぐ煙草を吸いに隣のパチンコ屋へ行ってしまう。母は「まったく困った人」と怒った。(祖母の褥瘡はひどかったらしい)病室に四歳児だけ残してもおけない。「聞かれてもパチンコの話はしちゃあだめだよ」と口止めに駄菓子を買ってくれるようになった。パチンコ玉を一掴みくれることもあった。そんな生活が一年続いた。
 祖母が亡くなり、祖父は大阪で一人暮らしになった。徘徊するようになる。二十近い年の差婚だったから八十になっていた。電報がきて、私は近所に預けられ、母が大阪に出かけて行ったことを覚えている。伯父さんから呼び出しがあったのだ。小学校に入ると、祖父は足を怪我して入院。見舞いに行った。その次は葬式だった。
 祖母の入院時、母はとても忙しく、また盲腸になったこともあり、転職した。小学校は修了時間が保育園より早い。長い夏休みもある。定時に帰れて休暇もとれる職場に替わった。それで大阪にも行きやすくなり、道中、祖父の話を聞くことができた。
 祖父は奈良の山奥の水飲み百姓の長男だった。弟妹を食べさせるため、十五で渡米を決意する。渡航費はないから、神戸の食堂で一週間働き、コック見習いとして乗船したそうだ。ところが、最初の寄港地、上海で下船してしまう。イギリスとフランスの租界が華やかだった。
 関税の計算をする仕事に就く。計算件数で支払う日雇いの歩合制だから、速ければいい稼ぎになった。よく出てくる数字を表にして高速化したらしい。そんな祖父が自分と重なる。経営工学科なのにコンピューターに興味を持ち、PascalコンパイラやLISP処理系を作った。
 南京は当時首都である。貿易商として南京で成功するまでの詳しい経緯を母も知らない。あるとき荷馬車の人足たちが嵐に怯えて動かなくなった。そこで、祖父は夜、墓の上に寝てみせた。「俺は何も怖くはないぞ」と人足たちを統率し直して再び出発した。そんな武勇伝を母が聞いたのは、来客をもてなす酒宴の席だった。
 「無学の父が南京で自分の店を持つまでになった」母が祖父を尊敬しているのは、南京に着任した軍の偉い人たちが必ず挨拶に来たからだ。抗日運動があり、軍は食糧調達に苦労していた。大戦の三十年も前から大陸に渡り、商売してきた祖父は頼りにされていた。
 母が生まれた昭和四年は世界恐慌の年である。「おまえが生まれてから戦争が絶えない」と言われたそうだ。志那事変が小学二年生。民間人の疎開命令が下り、一家は長崎に疎開する。南京陥落の盛大な提灯行列を母は覚えている。一家が南京に戻ったのは一年後だった。だが虐殺の噂は聞いていないという。店の使用人は中国人だったから、もし本当だったら、なんらか話が出たはずだ。母は中国語ができた。
 南京には日本人が一万人以上暮らしていた。海軍の武官府があった。武官府は、天皇に報告する武官が駐在している。(さすが首都)上海事変から南京陥落まで海軍がメインだった。もちろん陸軍も駐留しているが、母は断然海軍びいきだ。
 南京陥落後、祖父は南京一の大通りに土地をもらう。一階がテナント、二階が住居、三階には母の部屋があり、その上の洗濯物干しから街中が見渡せた。テナント三軒のうち中央の一軒を祖父が使い、あとは貸していた。店の前で撮った家族写真に第一生命が写っている。広い裏庭があり、高い塀で囲われていた。ドイツ製の写真機と自動車も自慢だった。当時は軍か新聞社くらいしか持っていない。
 祖父の逸話は私に影響を与えた。大学が電電公社に推薦してくれないなら公募で入ってやる。人工知能でオランダの学会に行ってみせる。カナダの交換機メーカ、シリコンバレー支店、これらは母の口癖「無学でも自分の店を持つまでになった」の通りだ。
 しかし、敗戦で財産はすべて没収されてしまう。引き揚げで持ち帰れたのは、自分が持てる分だけ。大半が祖母の着物だった。呉服商が日本からやってきて、高価な着物を作っていた。引き揚げて食糧に替えてしまったが、大島紬の二着だけは祖母が絶対手放さなかった。最近になって呉服屋に見てもらったら「いまでは作れない」と言われた。
 南京では空襲も戦闘もなかったから、祖父母は敗戦を全く考えていなかった。ところが、母は武官府で奉仕活動をしていて、敗色が濃いことに感づいていた。女学校では外交官の一家が早々に帰国した。母は玉音放送を武官府の庭で聞いた。
 日本人は全員、陸軍の兵舎に強制収容される。各家庭に割り当てられた区画に運んできた家財道具を積み上げ、その中で寝たそうだ。しかし、冬になると家具を燃料にするしかなかった。上海までの貨物列車には手荷物一人二個。貴金属は没収。博多に引き揚げてきた三月、爆撃で無惨に破壊された博多港を見て、初めて敗戦を実感したそうだ。
 そのとき母は十七、祖父は還暦だった。母の戦後も大変だったが、いまは博多での祖父の喪失に共感する。以前疎開した長崎は原爆、奈良の田舎も復員であふれ居場所がない。末娘の稼ぎでようやく大阪に家を持つ。そこから祖父は、どこへ帰ろうと徘徊していたのだろう。
 京都国立博物館から毎年「預り証」が送られてくる。祖父が大陸で手に入れた石造の狛犬だそうだ。戦前に日本に送っておいたらしい。詳細は母も知らない。見たこともなかった。「引き続き預からせてほしい」と手紙がくる。一体どんなお宝だろう。
 私の還暦の記念にと、妻と娘が段取りしてくれた。案内されて博物館の地下倉庫へ降りて行った。学芸員三人がかりで、子犬ほどの石造を出してくれた。
 詳細な来歴を聞けると期待していたが、博物館の資料は戦争で焼けてしまい、所蔵品一覧を戦後作り直したそうだ。主任学芸員は「お名前の読み方が分かってよかった」と言った。石造を入れた木箱に貼られた祖父の名前が意味不明だったのだ。(祖父は中国で縁起がいい漢字に替えていた)その名前を久しぶりに目にした母は「父に会えた」と喜んだ。そんな品物が国立博物館に眠っている。
 私のデジタル電話交換機は、武蔵野のNTT技術史料館に眠っている。

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