宗教三世の私と宗教と。

突然だが私は宗教三世だ。現在、宗教に対しては、距離をおいている状況だ
である。
宗教に傾倒していた時期も、抑圧に苦しんだ時期もある。
宗教と関わる中で、いろいろと考えていることがあるので、書いてみようと思う。
宗教を否定したいわけでも、宗教を信じている人を否定したいわけでも、また、宗教に勧誘しているわけでもないので、安心して(?)読んでほしい。

私と宗教

まず、私と宗教のかかわりについてだ。
時系列で、私が今まで宗教とどう関わってきたかを語ってみようと思う。
下記のリンクにも記載があるので、あわせて読むと分かりやすいかもしれない。

①子供時代「優しい子だね」

私は、子供時代、宗教や神が当たり前だった。

小学生に上がる前までは、一般的な「神」と、親が入っている宗教の「神」の区別がついていなかったくらいだ。
しつけにおいても、それが宗教の教えなのか、一般常識の話なのか、そこまで区別されていなかった。

さすがに、成長する過程で、自分の中で段々とすり合わせが行われたが、今でも、世間と自分の間で、すれ違ってると感じることもあるかもしれない。

そのくらい、宗教が当たり前の家で育った。

宗教の教えの通り、私は、「やさしさや調和」を一番大事にするよう育てられた。

「人に優しくしないと嫌われるよ。」

これが、母が私を叱る時によく使った言葉だった。
これを分解してみると、

「嫌われることは悪いことだ。」
「優しくない行動は嫌われる。」

このどちらをも植え付けることのできる魔法の言葉だったのだ。

え、よく考えたら洗脳じゃね?これ。

共感性を持った行動をしたとき、優しさを見せたとき、私は褒められた。
自主性よりも協調性を第一に置かれた。

私が、生来多少攻撃的で、協調性のない行いをしていたことも、そのしつけを加速させる原因になったのかもしれない。

私は家では(協調性のない)自分のままだったから、母は外でも友達などにそういった態度をとっていると考えていたらしい。

だが、母の言葉の呪いは、家の外では強く私を縛っていたのだ。

私は、小学生時代、周りからよく言われた。

「優しい子だね。」と。


②中高時代「宗教への傾倒」

私は、そもそも本を読むことが好きだったため、宗教の教えの書いてある本(聖書的なやつ)を読むのが苦ではなかった。

そのため、宗教に対し、割と優等生的であった。

考えるのが好きだという性質もマッチしたのだろう。

宗教が真理を説いていると信じていたし、難解に説かれる言葉を解き明かすことも楽しかった。

宗教に入ったことのない人にはあまり想像がつかないかもしれないので、一般的に言うと、あこがれの思想家や作家の書いた本を読み漁る時に似ているかもしれない。


宗教では、周りを喜ばせること、人を幸せにすることが、良しとされた。

子供時代と比べ、高校あたりでは、これを、受動的にではなく、積極的に行うことができていた。

子供時代は、「人から嫌われたくない」という一心で、人に優しくしていた。
それに比べ、高校時代は、その人が好きだから、その人を幸せにしたいからという能動的な気持ちで人に優しくしていた。


この点では、親に頭ごなしに「優しくあれ」と押さえつけられていた子供時代と比べ、この時代の方が、より健全だったはずだ。

ちなみに、ここで私が得た真理が一つある。

人に嫌わらないために行なう優しさは、誰のことも幸せにしない。
相手は自分のことをなめてかかるだけだし、自分を消費することにもなる。
けれど、自分が相手を好きだからこそ行う優しさは、相手もうれしいし、自分だって、相手が喜ぶから、全員が幸せなのだ。

正直これは、現在の私がまったく言いそうにもない言葉だ。

ただ、今こうやって文にして思い返すと、この頃の方が幸せだったのではないかと思えてくる。

人を幸せにするということが、悪いことのはずがない。
この頃、私は異常なくらい人から好かれた。

好かれるという点でも、人生をうまくいかせるための方法としても、これは一つの真理だとは思うのだ。

ちなみに、この時私は、人を救うことが至高の喜びである。と信じていた。
そして、それを行うのが、私の使命だとも。


③大学時代「疑い」

大学受験を経て、私は、宗教の教えが書いてある本を読めなくなる。
どこかのタイミングで私は、宗教に、自分の考えを染められていることに気づいたのだ。

これまで、自分の考えがあっても、宗教に反することは、なんとなく考えてはいけないという思いがあった。

しかし、宗教は宗教だけど、自分の考えは持ってももいいんだと思い始める。
自分の人生なのだから、自分の考えがあっていいのだ。

ちなみにこの頃。
年上のAさんを、私は慕っていた。

Aさんは、私と同様、宗教を疑っていた。

しかし、私と違う点として、Aさんの「疑い」は、信じるという前提のもとであった。
(この概念は少し難しいかもしれない。内部から疑うという表現がわかりやすいだろうか。)

疑いつつ、宗教の本を浴びるように読んでいたAさんは、最終的に、「この宗教は正しい」という結論に至った。

現在、Aさんの考えのほとんどは、宗教の考えである。

それが悪いことだとは思わない。それは本人の自由だ。
すごく素敵な人だし、私が高校時代に感じていた真理を、この人は人生として体現しているのだろうとも思う。

だが、何を言っても、何を相談しても、その人からは、宗教の言葉しか返ってこなくなった。

彼女のアイデンティティは消失し、生きる宗教となってしまった。

そう、アイデンティティだ。
アイデンティティの消失を、私は恐れているのかもしれない。

私は、宗教によって、考えを染められることによって、自分がこの世から消えてしまうことを、強烈に恐れているのかもしれない。

自分が誰かや何かと同質になって、私この世に生きる意味を失うこと。これが怖いのだ。

宗教に傾倒していく人たちが、どんどん宗教の思想へと飲み込まれ、ニュートラルな一つの思想へと均一化されていくその有様。

あれだ、進撃の巨人の、王様。
何もかも知っているような目になり、みんな同じことを言うようになる。
元の彼はどこへ行ってしまったのか、という疑念。

私が属していた宗教は、思想の拡大を一番に考えていた。

教祖の考え方に影響され、それを広めたいと考えている人たちが、信者だ。
信者の使命は、教祖の考えを拡大することである。
私の属していた宗教は、信者を増やす≠思想の拡大であった。

「信じる。」とは、思想の同一化と同義である。
私は、「自分の考え」があるということが大事だった。
宗教を信じれない。
つまり、私は、宗教と思考を同一化したくなかったのだ。
それがどんなに素晴らしい考えでも。
「考え」とは、自分固有なもので、自分と他者とを差別化できるものなのだ。


一般的な宗教への感情

正直、宗教によって救われることは絶対にある。これは、私が宗教内で感じてきたことだ。
一般的に、宗教は悪いイメージを持たれることが多い。
しかし、私は宗教が悪い側面だけではないことを知っている。

宗教というコミュニティーは狭くて深い。
心のよりどころになるし、「何が正しいかわからない」という時代にこそ、「これが真理だ」と提示されることで、迷うことも少なくなる。

宗教でよく言われる「利他愛」的な精神によって、人から好かれるようになるし、それによってうまくいくことも多い。

私は距離を置く選択をした。が、合う人には合うと思う。

もちろん、カルト宗教や、金を吸い取られるタイプの宗教は、やめるべきだ。
が、そうでないのなら、人生経験として、参加してみるのも悪くはないのかもしれない。

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