見出し画像

(没)廃業探偵の愁い

「探偵に最も必要な素質とは何だと思いますか?」

 学生時代のことである。卒業記念にと単身乗り込んだシベリア鉄道の車輌内で、私は“探偵”と出会った。
 自分の部屋コムナタで暇を持て余していた私は、ハバロフスクで乗り込んできた同じ日本出身の男と親交を深めることになった。
 ややオーバーなデニムのボトムス、ゆるりとした白いシャツの上にスエードのベストを羽織り、中折れ帽をかぶっている。黒縁伊達眼鏡の向こうで狂気を孕んだ瞳が光った。
 窓外のバイカル湖を横に、男は探偵を名乗り、ピロシキ片手に前述の質問を繰り出した。
「さぁ、事件に遭遇することとか?」
「正解!」
 探偵は指を立ててみせた。
「はぁ…?」
 探偵はピロシキに、どこからか取り出した果物ナイフの柄をぐりぐり押し込みながら狭い室内を右往左往する。
「探偵とは、いかなる推理力や犯人と対面して怖気付かない度胸を持っていたとしても、事件が起こらない事にはなにも始まりません。しかし世の中そうそう事件が起きるわけもなく、また、起きたとしてもそれは探偵などではなく警察機関の職分となってしまう。とすると、探偵の出る幕とは一体いかなる状況なのか。そう、それはこのような俗世とは隔絶された密室での殺人事件。しかしそのような特異な状況下で事件が起こる確率は限りなく低い。そんな調子では早晩廃業です」
 そこで探偵は一息ついた。
「では、どうすればそんな突飛な事件を起こせるのか。考えたことはありますか?」
「ないです」
「ふふん、それはですね……」
 探偵は私の前に顔面を突き合わせると言った。

「私自身が事件を起こせばよいのですよ」

 探偵の口の端が壮絶に歪む。
「そういうわけで貴方にはこれから私の仕事のために犠牲になっていただきます」
 ピロシキに埋まったナイフが妖しく煌めく。

 私は自称探偵の顔面を蹴り上げた。

 その時だ。列車を揺るがす爆轟の振動が床を突き上げて私たちに襲いかかったのは。

【続】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?