独りよがりな文章について
昔、小説は読者があってこそ成り立つ、みたいなことを言っていた時期がある。今でも別に異論はないけれど、これが自分を苦しめている可能性を考えると、なんだかなぁという気持ちになる。別に独りよがりでもいいんじゃないか?
読まれる小説と読まれない小説、もっと広げるならば、読まれる文章と読まれない文章。インターネットには無数の文章が転がっている。じゃあ、書き手と読み手の需要ってどうなの?あれ、そもそも自分の創作における目的って?
考えるときりがないので、詳しくはまた別の機会に触れようと思う。今回はタイトルにあるように「独りよがりな文章」について自分の見解をまとめたい。
エピソード 「独りよがりな文章」を書く友人S
友人Sに初めて出会ったのは高校生の時だった。Sとはクラスが同じで、お昼ご飯を一緒に食べたり、学校行事に一緒に参加したり、それなりに仲良く過ごしていた。私は文芸部で小説を書いていることをSによく話していて、ある日Sも文芸創作に興味があると伝えてくれた。
Sの書く文章は端的に言うと「独りよがり」なものだった。Sが好きそうな言葉、好きそうな設定だけで成り立っていて、詩というよりはポエム、小説というよりは自分語り。どこかで見たようなかっこつけた言い回しや、書きたい場面を書いただけの完成しない小説。もちろんそんなことをわざわざ口には出さなかったし、Sの作品に対して評価をつけたいわけでもなかった。ただ、自分とは創作への認識が違うのだなと思った。
その時の自分は、小説は人に読まれないと意味がなくて、自分の世界を人に面白いと思ってもらうことこそが創作の意義であるとさえ思っていた。だからSの創作物を小説や詩と呼ぶのにも抵抗があって、部誌に載せるというのは論外だった。三年間、Sのことは仲の良い友人の一人だと思っていたけれど、Sの書く文章に対して良い感情を抱くことは一度もなかった。Sが文芸部に入ろうかなと言っていたときはやんわりと受け流して、「そうしなよ」などとは絶対に言わなかった。
振り返ってみると、このエピソードにはツッコミどころが多い。そもそも「独りよがりな文章」とそうでない文章を区別するのが難しいのである。例えば、文章を書くとき、自分はなるべくシンプルな言葉を使うようにしていて、イメージとしては自分と他人とちょうど中間にあるものを選ぶみたいな感じだ。創作において言葉というものは自分の世界を他人に共有するための手段の一つであるから、そこに不必要な抵抗が生まれないようにしたい。
確かに自分の好きな言葉を使うのは楽しい。ただ、人に読まれるとなると、自分の好む言葉が読み手にとって最適であるとは限らないし、場合によっては不快感すら覚えてしまうかもしれない。Sはきっと楽しく創作をしていたのだろうけれど、私は「独りよがりな文章」だなと思ってしまって内容には全く入り込むことができなかった。
「独りよがりな文章」かどうか
自分の書いている文章が「独りよがりな文章」ではないという保証は全くない。それどころか誰かにとっては「独りよがりな文章」そのものである可能性が高い。ついさっき、自分はなるべくシンプルな言葉を使うようにしている、と述べたけれどよく考えてみると、それはあくまでそれは冷静なときであって、筆が乗っているときは自分から生まれる言葉をそのまま書き起こしているのである。それはつまり、言葉が自分と他人との中間地点よりもかなり自分に近いところにあるということになる。
冒頭で小説は読者があってこそ成り立つと述べたように、そもそも「独りよがりな文章」かどうかというのは、書き手に判断できることではない。
「独りよがりな文章」に対する自分の見解をまとめたいなどと言っていたが、考慮するべきことが多すぎて収集がつかなくなってしまった。とりあえず、自分は「独りよがりな文章」について良い感情を持っていないこと、その上で自分の文章が「独りよがりな文章」である可能性を否定できないことがわかった。
・「独りよがりな文章」の定義の曖昧さ
・「独りよがりな文章」のメリット
この二点についてもう少し深く考えたうえで、「独りよがりな文章」を自分が受け入れられるかどうかについて改めて考えてみたいと思う。