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ポスト・フォーディズム期の都市の在り様について考える

ポスト・フォーディズム期の都市の有り様を決定する「都市の政治過程」については、次のような2つの視点で考えてみたいところです。

 成長戦略/都市間競争という概念は、必要以上に都市というものを実体化しすぎているのではないでしょうか。デュルケームは、社会をモノとして扱うという方針を社会学の方法論的出発点としていますが、とはいえ、社会が有体物として存在しているとは考えていないことも明らかです。確かに、都市には、建築物や自治政府のような感覚で認識できるものがあるために、カテゴリー錯誤が生じやすいのかもしれません。このため、成長戦略や都市間競争のような擬人化された事業体としての都市を考えてしまう傾向があるのだと思います。しかし、この擬人化された都市の背後には、実際に集合的決定を左右している生身の人間が存在しているのであり、その生身による人間の利益追求行動が成長戦略や都市間競争というイデオロギーによって隠蔽されているように思います。
 今後の都市の構造や機能を決定する可能性のある「都市の政治過程」については、都市を擬人化することなく、都市の政治過程を構成するプレイヤーを再構成しなおして、直接的に参画していない住民を理論的に取り組む試みが必要なのだろうと思います。
 「新しい階級闘争:大都市エリートから民主主義を守る」、「ポスト新自由主義と『国家』の再生」、「貿易戦争は階級闘争である」とった書籍が陸続と出版されていますが、都市をめぐる利害の衝突について、都市間のコンフリクトという、正直「眉唾」の概念で議論するのではなく、地に足のついた階級闘争や格差問題として捉える、「構造分析」と呼称されている潮流が本筋になるべきではないかと考えます。

 また、欧米とは異なるのでしょうが、日本の自治体政治を見ていると、特に首長選挙は与野党相乗りが多く、政党色が薄い面があることは確かであり、とすると都市レジーム論において政党がアクターとして出てこないことは、一見、日本では的確であるように思えます。しかし、昨今の大都市の政治状況を鑑みるに、都市問題が集約的に表れる東京、大阪、名古屋において首長の与党となっているのは、伝統的な既製政党ではなくなっています。都市の中における格差、特に最貧困層の可視化が進む状況の中、無党派層を取り込んだ新しい政治勢力が都市の議会・首長選挙において勢いを持ち始めているようです。欧米では一旦潰えた、市民の政治参加のための中間団体たる政党の変貌について、日本では改めて検討してみる価値が出てきているということではないでしょうか。

モロッチ「成長マシンとしての都市」(原著:1976年、「都市の政治経済学」日本評論社、2012年)において、既に都市エリートが、現実の住民の利害ではなく、都市外から資本と人を誘致するための施策に注力するようになっていることが指摘されており、かつ、その成長施策が労働者の福利の向上に寄与しないこと(国レベルの政策によって生み出された労働需要の総量を取り合うゼロサムゲームであること)、そして連合に対するカウンター連合が成立しうることが論じられています。
都市の成長路線という面においては、日本全体でオフィス空室率の上昇、オフィス賃料の低下という傾向が続いており、都市再開発も飽和しているようで、つまりは、都市の「成長」が、もはや目標として成立しなくなっている可能性が高いものと思われます。
となれば、「成長戦略」ではない政治目標に向けた新しい政党スキームが旧来のカルテル化した政党スキームを打破するということを期待できるタイミングが来ているのではないでしょうか。