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広告競争は「囚人のジレンマ」では?

 広告業について、「囚人のジレンマ」と「ブルシット・ジョブ」を補助線にして、少し考えてみました。

広告の蔓延

 改めて、電車の車内というのは、隅々まで広告で埋め尽くされており、告知のアナウンスが延々流れている。非常にストレスフルな空間で、やはり「電車には、乗りたくない」という気持ちが強くなった。また、今の世情においても、グーグルやFBの広告収入はうなぎ登りで、広告がますます世の中に蔓延している。

 しかし、その広告収入=広告コストは、財・サービスのコストに乗っかってくる。消費者は別に、広告なんて欲していないのに、その負担させられるコストだけ膨大に膨れていくということは何とかならないものだろうか。

 このような広告の絶対量の増大は、ネットという無尽蔵の帯域の発生によるものであり、広告が至るところに浸潤しているのは、安価なフラットパネルディスプレイの普及によるものだろう。ネットとフラットパネルによって生み出されたディストピアということ。


広告競争は、「だれ得」?

 このような「広告の奔流」という状態は、広告を出稿する財・サービスの提供者にとって、望ましい状態なのだろうか。この広告出稿競争ゲームは、「囚人のジレンマ・ゲーム」のナッシュ均衡でしかないのではなかろうか。 
 全般的に需要が飽和している中で、自分に需要を振り向けるために広告コストを負担するが、それでどれほど、マクロの合計としての需要が増えるであろうか。
 このゲームのルールを変えないと、ゲームのプレイヤーである事業者も「じり貧」なだけでなく、不愉快な広告を見させられるという、ゲーム外の一般消費者にとっての外部不経済を垂れ流すということもなっている。


広告はブルシット・ジョブ

 そういえば、「いま働き方を根本的に見直し、本当に大切な仕事はなにかを考える。」という触れ込みの「ブルシット・ジョブ」という本がある。これによれば、「ブルシット・ジョブ」とは、次のようなものであるとされている(同書 p22)。

「その仕事にあたる本人が、無意味であり、不必要であり、有害でもあると考える業務から、主要ないし完全に構成された仕事である。それらが消え去ったとしてもなんの影響もないような仕事であり、なにより、その仕事に就業している本人が存在しないほうがましだと感じている仕事なのだ。現代資本主義はこうしたサイ音であふれているようにみえる。」

 さらに著者のデヴィド・グレーバーは、この「ブルシット・ジョブ」に5つの類型として「取り巻き」「脅し屋」「尻ぬぐい」「書類穴埋め人」「タスクマスター」を設定している(同書 p50)。

 このうち、「脅し屋」について、こう述べている(同書 p61)。

「この用語が指しているのは、その仕事が脅迫的な要素をもっている人間たち、だが決定的であるのは、その存在を他者の雇用に全面的に依存している人間たちである。この手の最も明白な事例は軍隊である。国家が軍隊を必要とするのは、他国が軍隊を要しているからにほかならない。もし、軍隊をもつ者がなければ、軍隊など無用の長物となるだろう。だが、まったく同じことが、大半のロビイストや広報専門家、テレマーケター、企業の顧問弁護士についてもいえる。さらに、文字通りの脅し屋と同様、かれらが社会に対して与えるのは、概してマイナスの影響である。もしもテレマーケターがみな消え去ったとしたら、世の中はもっとましにならないだろうか。これには、だれしも意見が一致するものとおもわれる。」
(強調は引用者による)


外部不経済の補正のために

 軍隊の例が引かれているが、これもゲーム理論の教科書で「囚人のジレンマ・ゲーム」の典型例として例示されるものであり、著者も、広告という「ブルシット・ジョブ」による競争が「囚人のジレンマ・ゲーム」であって、その競争が存在しなくなることによって、当事者の利益と社会厚生の両方が高まると位置づけている。まさに、広報専門家を含む「脅し屋」という派生需要の「サービス」は、外部不経済の淵源になっていることを確認してくれている。

 外部不経済の補正というは、国の介入、特に税に期待される役割であり、炭素税が議論されるのであれば、広告税も議論の俎上に登らせるべきではなかろうか。