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「両極分解」は、これからなのかも知れない



グローバルなブルジョワ階級の実在性

 「共産党宣言」は、政治的パンフレットであるが故に、「資本論」よりも、マルクスの分析枠組みが端的に表現されているように思える。というのも、「資本論」第1巻に比して、「共産党宣言」からは、マルクスの実証的分析の及ぶ範囲は、資本の運動法則であり、ブルジョワ階級の性質や運動法則までだったということが、明瞭に看取できるからである。
 「共産党宣言」における、ブルジョワ階級の利益追求は世界規模になっていくという「分析」は、現在のイーロン・マスクなどに典型的に当てはまっており、この分析から導出される各種の予測は現在でも有効である。それゆえ、マルクスのブルジョワ階級という分析フレームが、今でもデビット・ハーヴェイらによって発展させられていることも納得できる。
 現在のブルジョワ階級は、リバタリアン、コスモポリタンの集団として、リアリティーのある存在であり続けている。ダボス会議のような世界レベルの社交を通じて、階級としての意識(「我ら」という意識)も形成されているだろうことが容易に想像できる。
 

プロレタリア階級の不存在

 しかし、プロレタリア階級が一つの集合体として形成されるという筋立ては、結局、ビジョンや「べき論」ではあっても、実証的分析に基づく主張にまで発展できていなかったと言わざるを得ない。その結果、ビスマルクやルーズベルトによって、資本主義の修正が図られたこともあり、マルクスの「両極分解」「絶対的窮乏化」は起きていない。
 労働運動の現状などを見れば、労働者階級という、単一の人の集合体が市民の意識の中にリアリティーのあるものとして存在していると主張することができはしないだろう。人を客観的基準によって区分けできたとしても、その区分に属する人々が同じ階級にいるという意識をもっていなければ、独自の政治的運動や歴史的自発性は生じようがなかろう。
 

これからの「両極分解」のリアリティ?

 とはいえ、注目すべき、検討すべき問題として、これから「両極分解」が起きるのかどうかということを考えてみる価値はあるのかも知れない。自然人としてのマルクスがどのような時間軸で視野をもっていたのかは想像する由もないが、マルクス理論の時間的射程は存外長いものであり、今からこそ、「実現」が予想されうるということも、様々な変化を踏まえると、頭から否定することもできないように思われる。