ネコとくらした5カ月。
「私は最低の人間です」とバイト先の店長に言わされたことがある。
昨年、娘と面白半分でその店に行ってみた。相変わらず店長がいたし、社長もいた。あれから20年近く経っているのに。
私はまったく当時と違う生活をしていて人生を楽しんでいて、そのバイト先で苦労したことも、抜け出して新しいことに挑戦したこともいい思い出になっている。
店長が救い難いくらい悪意を持ったひとだったので、憎むこともできず(同情に値した)、彼女の境遇を考えるとそうなるのかなぁなどと思った。
どれだけ頑張ってもいたぶられるので、私は次第に人生でやり残したことを考えるようになった。
それは希死念慮などではなくて、ここでしょうもない人間に巻き込まれてないで有意義なことをしたいなぁと、半ば現実逃避のように夢想するようになった。
高校入学を期に逃げて別居することになった父と最後にもう一度暮らそうかな、と思いついた。
私と母に逃げられて改心した父は、母と結婚してから勤めた会社で社会生活を全うして退職を迎え、一人静かに田舎で暮らしていた。
そこに転がり込み、5か月ほど同居した。
父から逃げた話し、コチラに書きました↓
着いてすぐにネコが挨拶に来た。
父の家のガレージで勝手に仔を産んだ母ネコだった。
後でわかったことだが、親子でごはんをもらい続けるために媚びを売っていたようだ。ネコも必死なのだ。
三毛の母が、三毛2、毛長茶トラ、グレーを産んだ。
性格は全員違った。
家に上がって人間のベッドにまで入り込む仔。
見られてないときにこそこそ侵入する仔。
見つかったら猛ダッシュで逃げる仔。
まだみんなお乳がほしくて母を追いかけ回し、母にシャーシャー言われていて面白かった。
私はまだ独身だったけど、母親って大変なんだなと疲れた母ネコの顔をみて思った。
ネコアレルギーだった私はネコといっしょに暮らすのははじめてで
とにかく楽しかった。
父と話すのも楽しかった。
中学校卒業まで生活していた頃は日常会話もなかった。
笑っているのも見たことがなかった。
父と母の会話もあまり記憶にない。
歴史小説の新刊について話しているのをなんとなく憶えている。
NHKニュースをいつも見ていて、お笑いとか見たことないみたいな父だった。
楽しく会話しながら食事をする家族ではなかったので、友人の家のお父さんを見ては、明るくて楽しくていいな、と思った。
定年退職してリラックスしている父は、別人のようだった。
フィットネスジムに通って、洗濯をして、ごはんを作って、私を気遣ってくれた。
私が現地で派遣バイトを見つけるまでは、あちこちの温泉に連れて行ってくれた。
しばらくするとネコアレルギーが爆発して私はけっきょくその家を出て、地元に戻ることになった。
いま振り返ってみても、あの5か月間は何の心配も苦しみもなくて、ボーナスタイムだったかなと思える。
強いて挙げるなら、派遣バイト先が片道40分先にあって、雨でも嵐でも自転車で通ったのはきつかった。
日勤と夜勤が交代でやってくるので、悪天候の日勤は父が送ってくれたが夜勤は自力で通った。
いまも片道30分自転車通勤しているが、このときに培われた忍耐力が生きてるのかもしれない。
自転車で走っているときは無心というか瞑想状態になって、心が静かになった。
地元のバイト先で酷い目にあっていたことや、派遣バイト先のきつい仕事も関係なくなって、とてもいいことをしていると思えた。
このときを境に、自分は被害者だという思い込みが取れていった気がする。
生まれついた家で被害者になることがサバイバルする術だった。
ずっと加害者だった父はもういなかった。
だから私はここから主体的に生きるようになった。
癖でたまに○○されてしまう私、という被害者意識に捉われることがある。
そうならないように気をつけているけれど。
それはただ意識の問題で、何かをしてくるひとがいても、される私ではなく、受け流す私になればいいだけ。
加害されたら、突っぱねる私である必要がある。
言いなりにされる私ではない。
私は最低です、などと決して言ってはならない。
私は自発的に自分を生きる。
何かを待ったり、
何かがもたらされるのを期待しない。
そう決めたらしょうもないことに巻き込まれることを二度と心配することもないし、自分の望みに向かってどう動いていけばいいか見えてくるのだ。
覗いてくれたあなた、ありがとう。
不定期更新します。
質問にはお答えしかねます。
また私の12ハウスにきてくださいね。