いのちの選択権はあるよね。
生きる意欲があるかないかは、寿命に関係あるだろうか。
多くの親族を見送ってきたなかで、老衰にしても自〇にしても、本人が「もういいや」と思ってしまえば、残りの時間は短くなるのではないかと思っている。
私が深く関わって、引導を渡してしまったのではないかと思う家族がいる。
最期のときにかけた言葉で「もういいや」とあきらめさせてしまったのかもしれない。
確認のしようがないけれど。
最期は自分で逝くんだとずっと私に言っていて、実行してしまったのだが、あまりにもいつもその言葉を聞いていて日常化していた。
本人はうまくやりおおせて満足しただろうか。
助けられなくて私は悔しくて号泣したが後の祭り。
本人の意志は固く、何をしてもダメだったかもしれないし、もう少し思いやる言葉をかけていれば長く生きられたのかもしれない。
思い出したけど、亡くなってから整形外科から装具が出来上がりました、と連絡があったり、眼科の予約を入れていたことがわかったり、、、
生きる気満々かよ!
ってツッコんだ。
本人いないけど。
電話口で「本人亡くなりました」って伝えたら絶句してた。
早く清算したかった私は亡き後、部屋をすぐに片付けて、衣類などもすべて処分した。
すると、その家族が裸で何か言いたそうな顔でベッドに腰掛けている様子の夢を見た。
私はふだん夢を見ないのに。
さすがに申し訳なかった。片付けはもう少し待ってもよかった。
【長く生きることの価値】について考えている。
ほとんどの人間がやり残したことや残される家族のことを想って、できるだけ長く生きようと努力するだろう。
そうではない人間を近くでたくさん見ていたので、長く生きましょうという風潮に私は疑問を持ってしまっている。
好きな時に人生を終わっていいとは思わない。
でも、どのくらい長生きするべきなのっていつも思う。
病気の治療を選択するときに、どんな辛い治療もうけてやるぞっていうやる気のある患者もいれば、消極的な患者もいるだろう。
治療を受ける権利はみんな等しくあって環境もあって、長生きはしあわせなことって当たり前に思われているけれど、状況によっては治療を選択しない自由もあるよなって、自分のなかでは考えている。
私はしぬチャンスがあるときには思い切ってしのう、という思う。あ、自然なカタチでね。自○はしない派。
無責任な人間なので、自分亡き後なんて知らない。みんな元気でねって思っている。
毎日もう嫌で仕方ないみたいな人生だったわけじゃない。
恵まれていたし、酷い目にもあったし、甘味も苦味も味わった。
よかったと割り切れているから、然るべき時にはがんばらないで流れに任せたい。
法律がどうこうとかあまり考えていなくて自分はそうしたい、って話しね。
誰にも文句は言わせない。
勝手にするわ。
覗いてくれたあなた、ありがとう。
不定期更新します。
質問にはお答えしかねます。
また私の12ハウスにきてくださいね。