前田健太郎『女性のいない民主主義』(岩波書店、2019年)
主題…「人民の支配」を意味する民主主義は政治学における基礎概念であり、近代の政治社会において尊重される理念である。しかし現実の政治において支配権を握るのは男性であることが多く、女性の意見が政治に反映されているとは言い難い。政治学にジェンダーの視点を取り入れることで、「女性のいない民主主義」を批判的に吟味する。
1章では、「政治」とは何かという根本的な問いをはじめ、話し合い・権力・制度といった政治学の基礎概念に対してジェンダーの視点から批判的な検討がなされている。
「政治」とは公共的な利益を追求する営みとして最広義の定義がなされる。公共的な利益の追求である点から言えば、それは性別を問わず、男性・女性双方にとっての利益でなければならない。しかし前田氏は、一般的な政治学の教科書がそうした性別の違いによる不平等に着目せず、男性の視点から記述がなされていることを指摘する。すなわち、公共的な利益の追求を目指す政治学の教科書であるにも関わらず、男女の不平等に着目するジェンダーの視点を取り入れることはフェミニズム論であっても、主流派の政治学の教科書が取り入れられてこなかったのである。
こうした問題意識をふまえ、前田氏は、実際の政治において権力が男性に集中している点を問題視する。前田氏によれば、こうした
権力の集中は、社会的に構築された「男らしさ」「女らしさ」という「ジェンダー規範」に源泉があるという。前田氏は、こうした
「ジェンダー規範」は政治制度や政治における話し合い、争点設定などに広く影響を及ぼすとして、それぞれに及ぶ影響を説明している。
2章では、「民主主義」が政治学においてどのように論じられてきたかをふまえ、そこにはジェンダーの視点が欠けているという点を明らかにしている。
前田氏は、女性の参政権を長く認めてこなかったにもかかわらず、ウィルソンがアメリカを「民主主義」の国にであると称していることに着目する。前田氏はこうした民主主義理解の背景に、ヨーゼフ・シュンペーターによる民主主義の最小定義の影響を見出す。シュンペーターは民主主義の要素として、「競争的な選挙」を重視した。前田氏によれば、こうしたシュンペーターによる民主主義の定義を採用すれば、女性の参政権の有無にかかわらず、「競争的な選挙」制度の整備によって、民主主義の条件を満たしていることになるのだという。
こうした政治学における民主主義理解に対し、さらに拡大的で有力な定義となったのがロバート・ダールの定義である。ダールの「ポリアーキー」論は、競争的な選挙制度に留まらず参加の包括性を取り入れることで、シュンペーターの定義よりは拡大的であり、女性の参政権の承認も視野に入れたものであったとされている。しかしながら前田氏は、ダールの議論には、女性の声が政治に実質的に反映されるか否かという「代表」の視点を欠いており、ジェンダーの視点の有無という点からは不十分であると評価している。
さらに前田氏は、政治学の教科書で頻繁に紹介されるサミュエル・ハンティントンの「第三の波」の議論におけるジェンダー視点の不十分さを指摘する。民主化の流れを説明するハンティントンの議論は、「男性」と「白人」にとっての民主化に焦点が当てられており、女性参政権の導入の歴史は軽視されているのだという。
3章では、福祉国家・利益集団政治・政策決定などに対しジェンダーの視点から批判がなされている。
ここでは、かつての福祉国家論は労働者を男性の働き手として想定しており家庭で家事に勤しむ女性の視点が乏しかったこと、そして今日、それに対する批判・再検討がなされていることが紹介されている。また、利益集団政治についても利益集団の構成員の大半が男性である点の問題性が指摘される。それに対し、今日ではフェミニズム運動が活発化し女性の多様な利益の表出がなされているという説明がなされている。
4章では、女性政治家の少なさとその背景の検討、及び女性の声が反映されるための制度の検討がなされている。
日本は1990年代に入るまで女性議員が少なく、90年代以降も大幅な上昇を迎えることは現在に至っている。前田氏は女性議員の少なさに加え、男女の間で支持する政策が異なる点を指摘する。性別により支持される政策が異なるという点から言えば、女性の意見が等しく反映されないことには問題があるのだという。4章後半では偏ったジェンダー規範自体を政治を通して是正するためにも、等しく女性の意見が反映されるための制度として「ジェンダー・クオータ」の説明がなされている。
一行抜粋…このことを素直に受け止めれば、民主主義の国では男性と女性が共に政治に携わるはずであろう。ところが、日本では男性の手に圧倒的に政治権力が集中している。具体的なデータについては後述していくが、このような国は、他にもあまり見かけない。日本の民主主義は、いわば「女性のいない民主主義」なのである(ⅱ頁)。