『文学の読み方』/さやわか
主題…年に二度、芥川賞と直木賞が発表されるが、その評価基準は明確にされていない。そもそも「文学」を評価する基準自体が明確ではなく、そのことは文学が近寄りがたいものとして認識される原因にもなっている。「文学」を評価する基準とは何なのか、そして、いかなる心構えで文学に触れればよいのか考える。
1章では、村上春樹の作品をめぐる評価を通して、文学におけるものの見方についての説明がなされている。
1979年に村上春樹が『風の詩を聴け』でデビューした際、村上春樹を評価した人々は、その作品における「リアリズムからの離脱」に注目していたとされる。村上春樹の作品は、生の現実をそのまま描くというリアリズムから脱却し、反現実的な描写を追求した点が優れているとされたのだという。しかし、こうした「リアリズムからの離脱」を魅力として評価する一方で、その非現実さから生の現地を描けていないこと指摘する評価もあったという。すなわち、文学とは、現実を描くべきであると考える立場からは、村上春樹の作品は「文学」として捉えられなかったのだという。さやわか氏は、こうした現実と非現実を軸とする村上春樹の評価は、今日でも続いているという。そして、「文学は現実を描くべきである」という文学の主流の考え方があるが故に、村上春樹は芥川賞を受賞しなかったのだとさやわか氏は指摘している。
2章では、文学をめぐる2つの「錯覚」がいかに形成されたのかについて論じられている。
さやわか氏は、文学には2つの「錯覚」がつきまとっていると主張する。さやわか氏によれば、その錯覚とは、「文学は人の心を描くべきである」という錯覚と、「文学は現実をありのままに描くべきである」という錯覚なのだという。こうした「錯覚」があるがゆえに、文学における評価基準が曖昧であり、何が文学を足らしめているのかが不明確なのだという。
こうした「錯覚」の起源を、さやわか氏は明治期に見出している。とりわけ、さやわか氏は1885年に刊行された『小説神髄』に着目する。『小説神髄』には、文学の基準として、「文学は人の心を描くべき」という点が示されているのだという。こうして、「文学は人の心を描いていれば優れている」という錯覚が根付くことになっただという。
3章では日本の文学史の中で、2つの「錯覚」がどのように関わりあってきたかについて述べられている。
文学をめぐる2つの「錯覚」は、人の心を描くという点と、現実をありのまま描くという点からなるため、両者は矛盾する要請とも捉えられるという。そして、さやわか氏によれば、日本の文学史は、この矛盾した点を結合することを試みてきたのだという。
その例として、田山花袋の『蒲団』が挙げられている。自然主義文学の代表とされる『蒲団』において、「人の心をありのままに描く」という、日本的な私小説が成立したのだという。そして、当時のマスメディアの登場も相まって、作家の私的側面が垣間見られるようになったことで、こうした錯覚が結びついた文学の伝統が生まれたのだという。
4章では私小説の伝統が弱まっていく流れについて論じられている。
さやわか氏によれば、私小説・自然主義文学の流れは、作家の「道徳」に対する批判や、格安の円本の流通、文学の消費対象化などによって、弱まっていったのだという。
5章では、芥川龍之介らに代表される「純文学」の登場とその背景について論じられている。
大衆社会化が進む中で、文学に一つの潮流が生まれたとされる。それが、大衆の社会主義意識を高揚させるための文学としての「プロレタリア文学」である。大衆社会化が進んだ後の社会では、大衆の意識を方向づけるために、文学が位置付けられるようになったとされている。
こうした大衆向けの文学に対し、疑義を投げかけたのが芥川龍之介であった。芥川龍之介は大衆向けの文学を全否定はしないものの、大衆向けの小説から距離をとっていた。そして、芥川龍之介のこうした態度を代表とする文学のあり方として、「純文学」という言葉が用いられるようになったという。さやわか氏はこうした経緯を踏まえ、「純文学」は、大衆向けの文学との比較において生じたものに過ぎず、「純文学」そのものを規定するもの実体はないということを指摘している。
6章では戦後の文学の流れや芥川賞の設立について述べられている。
7章では、石原慎太郎と村上龍のデビューや、村上龍のインパクトについて論じられている。
村上龍の『限りなく透明に近いブルー』でのデビューは、これまでの文学史にインパクトを与えるものだったとされる。さやわか氏によれば、村上龍の作品は、非現実を描きながらも、それを現実であるかのように描くことができている点に魅力があり、評価されているのだという。すなわち、村上龍の作品は、現実をあるがままに描くことは不可能であるという、文学における「錯覚」が孕む矛盾を露呈させ、その上で、非現実が「現実であるかのように」描くことを可能にしたのだという。
8章では、文学の「サブカル化」以降の時代において、文学はいかなる基準で評価されるのかについて論じられている。
現代では、あらゆる小説のジャンルが横並びになる文学の「サブカル化」の時代となったとされている。こうした「サブカル化」の時代においては、ありのままの現実を描く、という錯覚の不可能性が明らかになっているのだという。それゆえに、さやわか氏は、文学は、いかに現実をそのまま描くかではなく、いかに非現実・虚構を、「現実であるかのように描くか」というのが重要なのだと指摘している。
一行抜粋…ここまで読んだ人なら、とどのつまり文学というものが、あるいは芥川賞というものが、「人の心を描く」とか「ありのままを描く」という矛盾した錯覚を同時に信じながら、その基準に従って文学賞を選定しているジャンルなのだと理解できるはずです。それ自体が錯覚なのだから、賞の選定基準は曖昧にならざる得ません。だから、そのつもりで読めばいい。(243頁)