『「生きづらさ」について 貧困、アイデンティティ、ナショナリズム』/雨宮処凛 萱野稔人

主題…周囲からの評価や視線が常に気になり、自分の存在に価値があるのか不安に苛まれる。大多数の人がそうした「生きづらさ」を経験する。とりわけ経済的資源が乏しい状態にある人々は、より深刻な「生きづらさ」を抱えることになる。そうした「生きづらさ」の正体を知り、それと向き合う方法を検討する。

1章は雨宮氏が中高生の頃に経験したいじめの実態をもとに、現代の社会における「生きづらさ」の起源について議論がなされている。
雨宮氏のいじめの経験を受け、萱野氏は昨今のいじめをはじめとする「生きづらさ」の根本にはコミュニケーションのあり方の変容があると指摘する。中高生の教室での人間関係と同様に、今日の社会では場の雰囲気を壊さないように「空気を読み合う」ことがコミュニケーションにおいて重視されつつあると萱野氏は述べる。大人の社会でも、周囲の顔色や空気を伺いながら他者との距離感を微調整していくような高度のコミュニケーション能力が求められる傾向にあるという。
萱野氏はこうした「コミュニケーション重視型社会」の到来は、人が人としての尊厳を保つための「承認」の問題にもつながるとしている。高度なコミュニケーション能力が求められる社会においては、コミュニケーション能力が一つの価値基準となるため、他者から「無条件」で承認を受けるという経験が獲得されづらいのだという。そのため、昨今の社会では他者との人間関係の内部で「承認」を受けることができず、結果として「生きづらさ」を覚える人が増えているのだと両氏は見解を示している。

2章では今日の派遣労働や非正規雇用の実態を踏まえ、人々が抱える「生きづらさ」が「ナショナリズム」へと帰着する現象について取り上げられている。
雨宮氏は社会的経済的に不安定な立場にあるプレカリアートと呼ばれる人々による運動に着目する。そうした運動は今まで「生きづらさ」を抱えていた人々が、自身の置かれた環境の不当性を知るための契機になるのだという。
そうした不安定な立場に置かれた人々は、等しく自己の存在に対する不安感を覚えていると雨宮氏は述べる。他者との人間関係の中が希薄な上に、生存のために十分な資源を得られないことが「生きづらさ」につながるとされている。そして「生きづらさ」を抱える人々にとってさらに問題となるのが、近年の「自己責任」の風潮なのだという。「コミュニケーション重視型社会」において、うまく立ち振る舞うことができず、「生きづらさ」を抱える人々が、自身の置かれている状況は「自己責任」であると思い込んでしまうことこそが、本質的な「生きづらさ」の解消に向かわない理由であると雨宮氏は述べている。
萱野氏は「生きづらさ」を抱えた人々がいかなる政治的態度をとるようになるかという点について、フランスの事例を挙げて説明をしている。フランスの右派政党である国民戦線は貧困層からの支持率が高いという事実から、社会的経済的に弱い立場に置かれた人々は右派的な姿勢を取りやすいと萱野氏は指摘している。
このフランスの傾向は日本でも同様に確認できるという。日本でも十分な「承認」を受けることができず、「生きづらさ」を抱えた人々は、自己を無条件で承認してくれる「日本人」という「アイデンティティ」を拠り所にするのだという。「生きづらさ」を抱えた人々が「愛国」や「ナショナリズム」に価値を見出し、社会的精神的安定のための支柱とするという一つの流れが今日の社会で見受けられるとされている。

3章では赤木智弘氏の「希望は戦争」論争が社会に提起したことについて論じられている。
「希望は戦争」論争とは、赤木智弘氏による文章をめぐる議論である。赤木氏は「希望は戦争」の中で、近年の格差社会は完全に固定化しており、一度脆弱な地位に陥れられたら、その時点で上位層に上ることは不可能であるという主張を展開している。そしてその格差の固定化は戦争によって流動化しうるため、格差を解消する戦争を望むという結論に至っている。
この「希望は戦争」をめぐり多くの人々が応答をしたが、雨宮氏はその中でも「生きづらさ」を抱えた人々による反応に注目する。前章で取り上げられていたように、「生きづらさ」を抱える人々はナショナリズムに走る傾向があるということだったが、赤木氏の論考により、生きづらい人々は自身の置かれた環境の理不尽さを構造的に認識することが可能になったのだという。すなわち「生きづらさ」の理不尽さを覚え、ナショナリズムで自己の存在を確認するという方法に魅力を覚えなくなった人々が現れということである。
現代の「生きづらさ」の根本的な背景には、ネオリベラリズムがあると両氏は見解を一にする。ネオリベラリズムが浸透したことと、「コミュニケーション重視型社会」の到来は、日々の人間関係のあらゆる場面を一種の「競争」として認識させる効果があったという。そうした「競争」の中では、無条件の「承認」を受けるという経験はほとんど得ることができないため、不利な状況に置かれた人々は、常に不安を覚えることになると両氏は主張している。

4章は「生きづらさ」という現象について、現代という時代の文脈に乗せ、総括がなされている。

一行抜粋…ただ、確実に言えるのは、まったく共同体的な承認なしにコミュニケーション重視型社会を生きていくのは相当キツイということです。人間、誰だって失敗するし、うまくいかないことだってあります。そんなときに「それでいいんだ」とか「大丈夫だよ」って無条件に受け入れてくれるような居場所があるとないとでは大違いですよね。そうした居場所があるからこそ、いまのコミュニケーション重視型社会で失敗を恐れずにやっていこうという気持ちにもなるわけですし。(88頁)

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