『政治と複数性 民主的な公共性に向けて』/齋藤純一

主題…昨今の社会の分断や特定の個人に対する劣等者の刻印は、デモクラシーの前提を切り崩し、一部の人々を「見棄てられた境遇」に陥れている。見棄てられた境遇にある人々の声を聴き取り、「複数性」に基づいた政治を確立されなければならない。民主的な公共性を復権するための理論を模索する。

1章では政治における「複数性」の観点から「ラディカル・デモクラシー」の概念について論じられている。
第一に「ラディカル・デモクラシー」を論じるにあたり、アレントが提起したデモクラシーに対する視点の説明がなされている。アレントは、人々が公共的な空間で他者から見られ、聞かれるという経験をすることで人格的な尊厳を保ち、人間的な生を確立することができると考えた。齋藤氏はアレントのこの論から、「対等な政治的存在者」として処遇されるということをデモクラシーの条件として見出す。「対等な政治的存在者」として処遇されることで、人々は「見棄てられた境遇」に至ることなく政治の場面に参加することができるのだという。
そして「ラディカル・デモクラシー」の概念を明確にするために、「ラディカル・デモクラシー」と他の政治的理念との相違について述べられている。齋藤氏によれば、「ラディカル・デモクラシー」は、個人単位の私的利益を求めるリバタリアニズム、階級を前提とした社会主義、域内の市民を主体とする共和主義とは性質の側面から相違が確認できるのだという。
これらの議論を踏まえ、「ラディカル・デモクラシー」を「ラディカル」たらしめる4つの要素について触れられている。
齋藤氏は「ラディカル・デモクラシー」の要素のうち、「意見の複数性」を重視する。齋藤氏はこの「意見の複数性」について、政治的リベラリズムと多文化主義との比較から論を展開している。齋藤氏によれば、政治的リベラリズムと多文化主義はアイデンティティにおける「本質主義」への傾斜を否定していないため、「ラディカル・デモクラシー」の核心となる諸個人の「内的複数性」という視点には関心が向けられていないのだという。
そしてこの「内的複数性」の概念について、ニーチェやエマーソン、アレント、フーコーなどが言及しているにも触れられている。ニーチェをはじめとした思想家たちは、「内的複数性」は個人の常態であり、その状態を自覚し維持することが「自己倫理」の確立へと繋がると考えたという。
齋藤氏はこの「自己倫理」の確立を通した政治のあり方として「範例の政治」を挙げている。「範例の政治」の中での政治的な態度は「複数性」の維持に寄与するものであり、従来の利益配分中心の政治とは異なる姿を見せるのだという。

2章では社会の分断化に抗する「社会統合」のあり方として、「リベラル・ナショナリズム」と「憲法パトリオティズム」の説明、課題などが論じられている。
近年、社会的経済的不平等や社会不安による社会の分断が問題になっている。こうした分断に対する「社会統合」が求められているが、「統合」が却って過度な同化による排除や、包摂の名のもとでの差異への不寛容に繋がるのではないかという懸念も生じている。そこで齋藤氏は同化と排除に向かわない「社会統合」の可能性として、「リベラル・ナショナリズム」と「憲法パトリオティズム」を挙げている。
ディヴィッド・ミラーなどによる「リベラル・ナショナリズム」は、その国民によって共有されるナショナルな「公共的文化」による社会統合を主張する。「リベラル・ナショナリズム」は統合の根拠をナショナル・アイデンティティに見出す点では従来のナショナリズムと共通するが、「リベラル・ナショナリズム」の核心は「公共的文化」の可変性にあると齋藤氏は指摘する。齋藤氏によれば、「リベラル・ナショナリズム」は、「公共的文化」が多数者によって形成されることを前提としながらも、少数者の存在と自覚的に考慮し、「討議」を通して少数者の視点を「公共的文化」に取り入れ、改変することを想定しているのだという。こうした「公共的文化」の柔軟性や可変性が、従来のナショナリズムとの相違であるとされている。
後者の「憲法パトリオティズム」は主にハーバーマスによって論じられてきた。「憲法パトリオティズム」は、デモクラシーの過程それ自体に社会統合の根拠を見出そうとする。具体的にハーバーマスは、社会統合の根拠を「政治文化」の蓄積に見出していたとされる。ハーバーマスは人権保障のための憲法解釈の過程に参加し、その結果として「政治文化」が蓄積されることが、統合を可能にすると考えていたのだという。
齋藤氏は「リベラル・ナショナリズム」と「憲法パトリオティズム」の長短を踏まえ、「社会統合」の源泉は歴史的に共有されたアイデンティティではなく、歴史的に形成された「理由の共有」にあるべきとしている。

3章はハンナ・アレントの論をもとに、2つの政治理解として「表象の政治」と「現れの政治」について論じられている。
アレントは政治を定義するにあたり、他者の前に現れ、見られ、聴かれることのリアリティを重視した。他者に注意が向けられ、「現れ」が可能であるということと政治は不可分であるとアレントは考えていた。
こうした「現れの政治」と対局にあるものとして、「表象の政治」との対比がなされている。「表象の政治」は他者の存在を「who(誰であるか)」ではなく、「what(何であるか)」として扱い、表象された他者は「現れ」の可能性を剥奪されるという。アレントはこの表象された他者を「パーリア」と呼び、彼らの複数の意見は発現することなく、暗闇へと強いられるのだという。
斎藤氏はアレントのこうした論の展開から、政治における「聴くこと」の再定義を行う。アレントが「聴くこと」を意識しない態度を「没思考」と表現したように、斎藤氏は他者の声を「聴くこと」と思考の惹起の意義を主張している。

4章では「公共性」における複数の次元について論じられている。
ロールズをはじめとするリベラリズムは、公私の分離可能性を前提とし、「公共性」と関わるのは「共約的価値」のみであり、「非共約的価値」は「公共性」とは関わりえないと考えた。しかし斎藤氏はこの分離に対しては慎重であるべきと考える。斎藤氏によれば、「公共性」の次元は複数からなっており、「公共性」が「非共約的価値」を担う可能性もあるのだという。

5章はここ4半世紀の間の社会や生活保障の変容について論じられている。
齋藤氏は近年の社会的・経済的不平等は単なる貧困や格差問題とは異なることに注目する。齋藤氏によれば、近年の貧困や格差は社会全体の分断や排除に結びついているのだという。そしてこうした変化はここ4半世紀の間で展開されたとしている。
こうした変化について、アレントやフーコーの議論との対照として説明している。アレントやフーコーは労働や監視など「社会的なもの」が過剰になることに危惧を抱いた。しかし、齋藤氏によればここ4半世紀の社会の転換は「社会的なものの後退」にあったのだという。「社会的なもの」が後退し、「経済的なもの」が純化することで、個人の不安定を助長・合理化するように向かったとされている。
「社会的なもの」の後退により、生活保障が最低限にまで切り詰められ、保障が不安定になる時代において、いかなる権力が働いているかについて齋藤氏は触れている。齋藤氏は今日の権力の態様は、能動的に自己を統治するものであるとしている。公的・私的な生活保障が不安定になり、能動的に自己統治を自らの責任の下で行わせるように、権力が働くようになりつつあるのだという。
そして能動的な自己統治が出来ず、「見棄てられた境遇」に陥れられた他者に対する処遇についても言及されている。かつては貧困や窮乏の状態に陥れられた場合は生活保障の対象として処遇されていた。しかし今日では、生活保障は最低限にまで切り詰められた挙句、時として貧困や窮乏に陥った人々は「治安権力」の対象にもなりうるとされている。

6章では持続可能な社会保障を構想するにあたり、社会保障の前提として必要となる「社会連帯」のあり方について論じられている。
齋藤氏はヘーゲルを引用し、昨今の格差に警句を投げかける。齋藤氏によれば、今日の格差拡大による階層分化は、下位の階層にある人々による上位の階層に対するルサンチマンに帰結しうるほどのものなのだという。こうした現状から、持続可能な社会保障を構想する必要があり、その根拠としての「連帯」のあり方も問われなければならないとしている。
生活保障は対面的・既知の関係性に限りなされる人称的なものと、関係性が人格間によらない非人称的なものがある。制度としての社会保障は、国民の保険料納付と税によって運用されているため後者にあたる。社会保障をはじめとする非人称的な生活保障は「非人称」的であるという理由から、他者の意思に依存したりすることなく、連帯を図ることができるとされている。
しかし今日では、その「非人称性」という前提が崩れかけてきており、特定のカテゴリーに属する人々を給付の一方的な受給者とみなすようになりつつあると齋藤氏は指摘している。その例として、移民の排斥運動などが挙げられている。
そして齋藤氏は「連帯」の4つの理由を提示している。そもそも個人間での「連帯」が求められる理由は、「生のリスク」「生の偶然性」「生の脆さ」「生の複数性」にあるのだという。

7章は「親密圏」と生や政治とのつながりについて考察がなされている。
齋藤氏は「親密圏」をここでは「具体的な他者の生への配慮/関心を媒体とするある程度持続的な関係性」(196頁)と定義している。齋藤氏は人称的であり、代替不可能な具体的他者との「生」にかんする関わりを「親密圏」として設定し、その「親密圏」は諸個人の生の問題から政治領域にまで広くかかわると主張している。
「親密圏」は一般的には、市民社会の外部の領域として認識されてきた。そのため「親密圏」は、「社会的なもの」からの退避場所やそこでの価値観とは異なる価値が確立した領域であるとされてきた。しかしこうした認識に基づいていたがゆえに、「親密圏」は危険性が非対称的に配分された家族秩序の正当化に結びついていたという。またこうした「親密圏」に基づいて設計された制度、とりわけ婚姻制度などは、社会における性愛のあり方を一義的に規定するという機能を備えていたとされている。
アレントも「親密圏」は「現れ」の条件を欠いていることから、公的領域とは厳格に区別される領域として「親密圏」を設定していた。しかし齋藤氏はこうしたアレントの見解に修正を加え、「親密圏」における「現れ」の可能性に注目する。齋藤氏によれば、「親密圏」は具体的な他者の生への配慮を媒体とすることから、社会的に承認されていない「生」のあり方も肯定される余地を生み出すという。「親密圏」は、社会的に異端や異常であるとみなされる価値や生の形に対し、「生のリアリティ」という点にのみ焦点を当てることで、その生の肯定が可能になるのだという。

8章では、戦後責任について「集合的責任」という視点から論じられている。

9章は戦後の丸山眞男の思想における多元性の側面について考察がなされている。

一行抜粋…親密圏は、単なる事後的なセイフティ・ネットではなく、また、単に日々の生存への不安を緩和し、癒しを与える緩衝装置でもない。それは、人が現在の社会的評価に過剰に曝されることを防ぎ、引き続き有用でありうるか否かといった評価から少なくとも部分的に効力を奪う。親密圏の他者は、社会的な承認とは異なった承認を、社会的な否認に抗しながら、人々の生に与えることができる。その承認は、人間の生は脆弱であり、損なわれやすいという認識とも結びついているだろう。無視されていない、排斥されていない、見棄てられていないという基本的な受容の経験は、人々の「間」にあるという感覚や自尊の感情を回復させ、社会が否定するかもしれない生の存続を可能にすることもある。(206頁)

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