『キャラクター小説の作り方』/大塚英志
主題…近代文学などとは相反したジャンルとして取り上げられる「キャラクター小説」 しかし「キャラクター小説」と近代文学は連続的な関係にあり、かつ「キャラクター小説」の書き方や手法には可能性が秘められているのだという。「キャラクター小説」の書き方や「物語」が社会に対して持つ影響力など考察する。
1講では本書で扱う「キャラクター小説」とは何かについて説明がなされている。
大塚氏によれば、「キャラクター小説」とは表紙にアニメ風のイラストが描かれていたり、アニメや漫画がノベライズされたものを指すのだという。この「キャラクター小説」は文学としてではなく、「キャラクター商品」として売りに出され、消費される傾向にあるが、大塚氏はこの「キャラクター小説」を書くことは、文学や小説を書くことにつながるということを主張している。
「キャラクター小説」とは対極にあるように見える近代文学は、「自然主義」を前提として出発したとされる。「自然主義」とは、作品の中の情景や感情の描写を写実的に表現する態度や理念を指す。一般的に近代文学は、この「自然主義」に基づき、「私」の視点から物語を展開している。
他方で「キャラクター小説」はこの「私」目線の「自然主義」に反し、主体となる「私」が存在しないのが特徴なのだという。「キャラクター小説」において話を展開するのは、「キャラクター」以外には存在しないことが、「キャラクター小説」の最大の特徴であるとされている。
2講では「キャラクター小説」における「オリジナリティ」について論じられている。
大塚氏は近年の新人賞落選理由に見られる「オリジナリティの欠如」という理由に異議を投げかける。大塚氏によれば、「キャラクター小説」における「オリジナリティ」は不分明なものでああるため、「オリジナリティの欠如」という理由で候補を落選させるのには問題があるのだという。
大塚氏がそのように考える理由として、「キャラクター小説」におけるストーリーやキャラクターは基本的なコンセプトを受け継ぎながら作りだされるという点を挙げている。大塚氏によれば、「キャラクター小説」のストーリーやキャラクターの抽象的な像は昔から取り入れられていた共通したものであり、そこに具体的な要素を付け加えることでオリジナリティらしさが生まれるのだという。
3講では2講に続き、「オリジナリティ」についてキャラクターに絞り論を展開している。
キャラクターの「オリジナリティ」について、画期的な気づきをもたらしたのが手塚治虫であるとされている。手塚治虫はキャラクターの種類やそのキャラクターの表情などが、すべて「パターンの組み合わせ」であるということを自ら主張している。手塚治虫のこうした発言から、キャラクター自体の「オリジナリティ」と「パターン」は矛盾するものではないと大塚氏は主張している。
キャラクター小説を書く上ではこうした「パターンの組み合わせ」という点を踏まえた上で、そのパターンを発見することが重要であるとしている。そしてそうした既存のパターンをどのように組み合わせるかという点に「オリジナリティ」が生まれると大塚氏は主張している。
4講では「キャラクター小説」に特有である「架空の私」の視点から物語を書く方法について取り上げられている。
近代文学と「キャラクター小説」の決定的な違いは、表現の主体となる「私」の存在にある。近代文学は「自然主義」に基づき、「私」の視点から状況描写を行うが、「キャラクター小説」の場合は、その主観となる「私」が「架空の私」であるという点が最大の特徴となる。
この「架空の私」という視点から物語を展開する方法を論じたものとして、大塚氏はニール・D・ヒックス氏の『ハリウッド脚本術』を挙げている。この『ハリウッド脚本術』が紹介する方法に則ることで、「架空の私」を主体としてリアリティを追求する方法を見出すことができるようになるのだという。
5講では文学における「死」について論じられている。
「キャラクター小説」はそのストーリーやキャラクターにおいて「記号的」な側面を特徴としている。そのため、この「記号」というキャラクター小説の性格と、「記号」によっては表現されえない、リアリティのある「人間の死」は本質的に性格が異なるものとされている。
このことに自覚的であったのが手塚治虫であり、手塚治虫は「記号的」とされる漫画でいかに人の死を描くかに意識的であったのだという。
この点について大塚氏は、文学はこの「人間の死」を描くということに常に意識的であり、それとの向き合い方には責任を持つべきであると主張している。
6講では「破綻のないおはなし」の作り方について触れられている。
大塚氏は「破綻のないおはなし」を書き上げるためにも、「カード」を用いた物語の組み立て方法を推奨している。「カード」を単位として場面を設定したり、組み合わせを見直したりすることができるため、「破綻のないおはなし」を作るための感性を鍛えることができるのだという。
7講は「キャラクター小説」の作成手順としての「TRPG」について説明がなされている。
大塚氏は『ロードス島戦記』が「TRPG」の手法がとられていることに注目した上で、「キャラクター小説」の作成方法としての「TRPG」の可能性を主張している。
「TRPG」とは、物語の大枠を決定する「ゲームマスター」が仕切り役となり、役割を割り振られた「プレイヤー」が相互に自由に行動を取ることで物語が展開される手法を指す。大塚氏はこの2者に加え、「ゲームデザイナー」を加えたものこそが「キャラクター小説」の作成手順であるとしている。「ゲームデザイナー」とは、物語の「世界観」を設計する存在であり、ゲームマスターやプレイヤーの位置付けを規定する存在に当たるという。
この「TRPG」の視点から、「キャラクター小説」の執筆はこの3者のバランスによってなされるということを大塚氏は主張している。
8講では小説の面白さを支えるものとしての「法則」について取り上げられている。
9講では「キャラクター小説」における「世界観」の役割や描き方について説明がなされている。
「キャラクター小説」は近代文学とは異なり、「世界観」の意義が深いとされる。大塚氏によれば「キャラクター小説」における「世界観」とは、世界の観え方を指し、この「世界観」次第でキャラクターがとる行動や設定の位置付けが大きく変わってくるのだという。
大塚氏は「世界観」を描くことの練習として、「ずれた日常」を描くことを推奨している。
10講では小説における「細部」の意義について論じられている。
11講では「戦争」を描くことは何を意味するかについて論じられている。
大塚氏は9・11テロに始まり戦争へと帰結した一連の流れに「物語」としての側面を見出す。9・11テロからその報復として戦争へ帰結するという流れは多くの人々から支持されることになったが、その流れはまるで「ハリウッド映画」のようだったと大塚氏は述べる。当時の多くの人々は「戦争」を単純な因果律に基づき理解し、「映画のような戦争」を擁護してしまったのだという。
そこで大塚氏はハリウッドの対照となるものとして、「人間の死」や「戦争」を描くことに自覚的であり続けた手塚治虫以降のまんがやアニメを挙げている。そして大塚氏は、このまんがやアニメのリアリティのある「死」や「戦争」の記述を「キャラクター小説」も引き受けることができるということに期待をかけている。
最終講では「キャラクター小説」と近代文学の連続性について論じられている。
一行抜粋…これはテロリズムと民主主義国家の戦いであるとか、日本は国際貢献すべきであるとか、そういうふうにジャーナリストや政治家は「9・11」の「戦争」の意義を語りましたが、しかし、その根本にあって「戦争」を待望する気分を支えるのはアメリカが攻撃されることで始まった今回の出来事に対して、映画のような結末をついつい求めてしまう感覚であったと僕は今も考えています。(276頁)