中村高康『暴走する能力主義 教育と現代社会の病理』(筑摩書房、2018年)

主題…教育のあり方をめぐる議論がなされる際、従来型の暗記・知識の詰め込みに限定されない「新しい学力」が示され、理想とされる。こうした「新しい学力」の提唱は、幾度となく繰り返されてきた。教育をめぐる議論における「能力」の本質はどのようなものなのか、「再帰性」の概念をもとに考察する。

1章では、「新しい学力」が求められる傾向について、それまでの学力観の分析を通して、その実態を明らかにしている。
教育制度改革が進められる際、今の時代に対応した「新しい学力」が繰り返し提示されてきた。そうした「新しい学力」は、知識の詰め込みに終始せず、思考を深め、他者との対話や協働を行う能力を指すことが多いが、中村氏は、このように、知識の詰め込みを否定した上で新たな学力観が提示されることに疑義を呈する。中村氏によれば、生きる上で知識の詰め込みだけでは不十分であるという認識は、かなり前から指摘されてきたことであり、近年提唱されるコミュニケーション能力などの新たな学力観は、それまで繰り返し論じられてきた能力を塗り替えただけに過ぎないのだという。こうして中村氏は、繰り返し提唱される新たな学力観は、生きる上で必要な能力を違う名で呼んでいるだけであり、「新しい学力」と呼んでいるものは、これまで論じられてきた能力の看板をすげ替えただけであると指摘している。

2章では、そもそも「能力」とはいかなる性質をもつものなのか論じられている。
中村氏は、教育の指標であるとも言える「能力」は、いかなるものでも抽象的であり、「厳密な測定は困難」であるとする。ここでは、コミュニケーション能力・国語・数学など、一般的に「能力」として認識されているものが、どれほど正確な測定における脆弱性を抱えているか述べられている。

 3章では、近代社会における地位の配分原理である「メリトクラシー」の論じられ方の提示と日本の文脈に合わせた考察がなされている。
中村氏によれば、メリトクラシーは、近代化に伴うメリトクラシーの活性化を説明する「メリトクラシー進展論」とメリトクラシーの否定的側面を強調する「メリトクラシー幻想論」という2種類の形で論じられるが、いずれも問題を抱えているのだという。
中村氏はそこで、ジェームズ・ローゼンバウムの「能力の社会的構成説」を説明する。中村氏によれば、能力のあり方は、社会の構造によって事後的に決定されるとする「社会的構成説」が日本の学歴主義の文脈を考える上では有効なのだという。

 4章では、ギデンスの「再帰性」の概念を踏まえ、近代以降の「能力」のあり方には、近代の延長としての「再帰性」のシステムが備わっているという点について論じられている。

 5章では、「能力」が再帰的にそのあり方を問い直す性質をもつことを踏まえ、近年の「新しい学力」をめぐる議論は、後期近代における再帰性の高まりによるものであるという主張が展開されている。
中村氏は、メリトクラシーにおける自己の再帰性の説明に際して、「能力アイデンティティ」に着目する。「能力アイデンティティ」とは、社会的に必要とされる能力を認識し、自覚することを指している。後期近代には、この「能力アイデンティティ」を備えることができていないかもしれないという、「<能力不安>」に苛まれる傾向が生じるのだという。中村氏は、1980年代以降の「情報化」や「教育の大衆化」により、能力における再帰性の高まりと「<能力不安>」が拡大する流れを説明している。
また、制度的な再帰性については、調査書重視の選抜・推薦入学制度・大学から企業への推薦制度の廃止などが、再帰性の高まりの例として取り上げられている。
このように、後期近代に入り、能力の再帰性が高まった結果として、かつての能力観を否定し、「新しい学力」を求める動きが出てくるようになったと中村氏はまとめている。

 6章では、これまでの議論を踏まえ、現代の社会は「新しい学力」を求めているのではなく、「「新しい学力を求めなければならない」という議論それ自体」を求めているという点につき、近年なされている「能力」をめぐる議論への批判を踏まえながら議論がなされている。

一行抜粋…再帰的メリトクラシーの理論に従うならば、今日頻繁に見受けられるようになった「新しい学力」論現象の本質は、新しい選抜原理の胎動なのではない。そのような名案など誰も思いついていないにもかかわらず、既存のメリトクラシーを批判し、どこかで聞いたことがあるような陳腐な能力論をあたかも立派な代案であるかのようにふりまわさざるをえなくなっている我々現代人の苦悩≒メリトクラシーの再帰性の高まり、なのである(217頁)。

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