『公共性』/齋藤純一
主題…「公共性」の理念は、民主的な発話や行為を通して「開放性」や「異質性」を実現する。そのため、現代の社会にはびこる異質なものへの排除や閉鎖性に対して抗うための示唆を与えてくれる。画一的な定義が困難とされる「公共性」について検討を深める。
第1部では「公共性」をめぐる近時の言説の紹介がなされている。
1章は「公共性」という言葉が日本でどのような意味をもち、どのように距離がとられてきたかについて取り上げられている。
「公共性」という言葉が一般的な語として用いられるようになった当初は、「公共事業」や「公共政策」をイメージさせる語として認識されていたという。そのため、「公共性」はあまり肯定的にはとらえられていなかったとされている。しかし1990年代に入り、市民によるデモなどの動きが見直されると、そうした「市民的公共性」の発見へとつながり、「公共性」を評価する動きみ見られるようになったと齋藤氏は指摘している。
しかし90年代には「公共性」への肯定的な注目が集まる一方で、「公共性」を「ナショナリズム」と結びつけて論じる傾向も確認されている。そうした論の展開は、「公共性」を国民意識や道徳などの価値をあらわす表現として利用していたのだという。齋藤氏はこうした「公共性」の解釈は、「公共性」の性質である「開かれていること」や「差異」が現れることなどを蔑ろにしているため、「公共性」を「共同体」と見誤って用いていると指摘している。
2章では「公共圏」からの排除となる要素について論じられている。
「公共圏」からのフォーマルな排除としては政治的権利の剥奪や不承認が挙げられる。国籍を選挙権の条件とすることで、無国籍者は「公共圏」から実質的に排除されることになるということである。
他方のインフォーマルな排除として、齋藤氏は「言説の資源」の欠如に注目している。齋藤氏によれば、教育水準の低さ、経済的不平等、自由時間の欠如などは、人々の間の「言説の資源」が非対称的になる原因なのであるという。「言説の資源」が乏しいことで、人々は適切な語彙を用いて他者の前に現れることが困難になり、公共的空間からの排除に帰結するということである。
こうした排除が考えられる中、「言説の資源」の乏しさに苦しめられるマイノリティが、自発的に公共圏を形成するという視点にも注目が集まっている。マイノリティが既存の公共圏に対抗的になり、自発的に言説を塗り替えていくことを望むことで、新たな「対抗的公共圏」が形成されることとなる。この「対抗的公共圏」の形成は、今まで非対称的な位置に置かれてきたマイノリティにとって、自身の存在を他者から対等に見られ、聞かれるという経験をすることができることから、自己肯定の感情を得ることができるのだという。
第2部では1部の議論を踏まえ、「公共性」の再定義が図られる。
1章では「公共性」の現代的な認識についての礎を築いたユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』から『事実性と妥当性』に至るまでの議論の展開が取り上げられている。
ハーバーマスは『公共性の構造転換』で、公権力からの「公共圏」による対抗について、カントの思想をもとに理論を構築した。カントを引用するハーバーマスによれば、人々の「思考の自由」のためには「他者に対して思考を伝える自由」が必要不可欠であるのだという。カントはそうした自由のことを「理性の公共的使用」と呼び、そしてハーバーマスは「理性の公共的使用」のための空間として「公共圏」を位置付けた。ハーバーマスはカントの啓蒙の理念を援用することで、「公共圏」の潜在的可能性を説いたのだという。
しかし齋藤氏によれば、この『公共性の構造転換』で述べられた「市民的公共性」の概念には何点か限界があったのだという。そしてハーバーマスがその限界を自認した上で議論を展開したのが、『事実性と妥当性』なのだという。『事実性と妥当性』では「公共性」が位置付けられる領域として「市民社会」が設定されており、その「公共性」の担い手の範囲も拡大されているのだという。
2章ではハーバーマスにも影響を与えたハンナ・アレントが「公共性」をどのように描いたかについて論が展開される。
アレントは「公共性」を「現れの空間」という言葉を使い、表現している。アレントは、人々が「言論と行為」を介して他者の前に現れ、見られて聞かれるという経験が生のリアリティをもたらすと考えている。その空間をアレントは「現れの空間」と名付けるが、その一方でアレントは「現れの空間」に対になる空間として「表象の空間」という空間を考察しているのだという。
アレントによれば、「表象の空間」とはその人が「何」であるか、として開示される空間であり、そこで人々は「入れ替え可能」な存在になるのだという。「入れ替え可能」な表象のもとで現れるということは、時としてネガティブな徴を押し付けられることにつながり、その徴による暴力へと帰結することになるとされる。他方で「現れの空間」では人は「誰」であるか、として開示され、「入れ替え不可能」な存在として現れるのだという。アレントはこうした対の空間を提示することで、「現れの空間」と個人の「自由」を結びつけて、「公共性」を表現したのである。
またアレントは「現れの空間」以外の次元においても「公共性」を表現している。それが「共通世界」への関心に基づいた「公共性」の概念である。アレントによれば、人々が多様多種なパースペクティブのもと、人々が「共通世界」の「<間>」に関心を抱くことで「共通世界」における「公共性」が成立するのだという。
アレントの議論の特徴の一つとして、公的領域と「社会的なもの」を分断している点があげられる。アレントは生の持続や、生命の切迫性が公的領域に侵入することに批判的であり、公的領域と「社会的なもの」の厳格な分断を念頭に置いていた。そこで齋藤氏は、アレントの限界はこの点にあると主張する。フーコーが『性の歴史』の中で展開したように、現代では「生命」と「権力」の関係は不可分の状態にある。この前提に基づくと、生命と政治を厳格に区別しようとするアレントの議論には、現代的な文脈に乗せた時に限界が生じるのだという。
3章は生命の保障をめぐる政治と「公共性」のあり方について論が展開されている。
人々が生命を維持、持続するためには最低限のニーズが必要となる。問題になるのが、その「ニーズ」はいかなるものを指し、いかに決定するのかという点である。そこで人々のニーズを所与のものとせず、「解釈」を繰り返すことで再定義、再編成しようとする政治のあり方がある。それが「ニーズ解釈の政治」である。「ニーズ解釈の政治」は人々のニーズやその決定方法が相対的であるという前提から出発し、公共的な「解釈」を通してニーズが決定されるのである。
齋藤氏は、1980年代以降の社会国家の変容に着目し、「連帯」のあり方について考察を加えている。日本を含めた先進諸国は、1980年代以降、社会国家のあり方を徐々に変容させていくことになる。齋藤氏によれば、この時期から「社会的なもの」と「経済的なもの」が乖離を始め、人々の生活保障のあり方も変容を遂げていったのだという。そこで生活保障は、個人の生の保障を「自己統治」を通して行うというシステムへと変化し、そして社会的な「連帯」も徐々に崩れていったとされている。齋藤氏はこうした連帯の変化から、「ニーズ解釈の政治」の必要性の再認識が求められると主張している。
4章では「親密圏」と「公共性」の関係性やその可能性について取り上げられている。
一行抜粋…私たちの生の位相が複数であるように、公共性も複数の次元をもつ。私たちが一つの生/生命の位相のみを生きるわけではないように、公共性もどれか一つの次元のみが重要なわけではない。私たちはニーズとは何かについて解釈し、共通の世界について互いの意見を交わし、規範の正当性について論じ、けっして自分のものとして捉えられない世界の一端が他者によって示されるのを待つ。私たちの<間>に形成される公共性はそうしたいくつかの次元にわたっている。(107頁)