『変貌する民主主義』/森政稔

主題…「民主主義」は理想的な政治体制の代表とされてきた。「民主主義」は画一的な理念として尊重されてきたわけではなく、社会の変動に伴い、異なる意味付けがなされてきた。とりわけ「現代」における「民主主義」は、私たちを取り囲む社会と直結した関係にある。「民主主義」が社会の諸事実とどのように関係し、変貌を遂げてきたか、検討を深める。

序章では、本書の軸となる「現代」の捉え方について論じられている。森氏はこの「現代」の姿が、民主主義の意味づけの変容に影響を与えると考えている。
「現代」の始点として、民主主義の変化の一つの契機となった「東欧革命」をあげることができる。しかし森氏によれば、「東欧革命」は政治学の分析対象としては注目されるものの、「東欧革命」自体が西側諸国に与えた影響は乏しかったことから、「現代」の基準として「東欧革命」を設定することを断念する。
そして森氏は、「東欧革命」に代わり、1960年代から80年代までの社会の動態を「現代」の軸として論を展開することを試みる。60年代から80年代に「現代」の基準を設定する理由は、「ニューレフト」の動きと「保守革命」にあるという。
60年代に始まった「ニューレフト運動」は、資本主義経済の進展に伴う弊害を糾弾し、物質的価値から脱却し、非物質的価値観を追求することを掲げた。こうした動きは、既存の価値観の解体を促した上に、マイノリティの運動や参加民主主義の潮流へとつながることになったとされている。
他方1970年代になると新自由主義政策をはじめとした「保守革命」が進んだ。この「保守革命」は新自由主義的政策と相まって、既存の政治的対立軸を解体させたとされている。
森氏によれば、この「ニューレフト」と「保守革命」という60〜80年代の出来事が、「現代」の前提となり、民主主義の変貌を規定することとなったのだという。

1章は自由主義と民主主義の政治思想史上、どのような関係にあったか論じられている。
自由主義と民主主義は部分的に理念を共有しているとされながらも、背景とする原理は異なる領域に位置付けられるものと考えられており、両者の重複は偶然的な程度にとどまるとされている。そのため、政治思想史上は両者は時として対立、矛盾する関係にあり、両者を結びつける「自由民主主義」は緊張関係を内在させた理論であると評価されている。
自由主義と民主主義の両者の関係を論じた論者の一人がカール・シュミットである。シュミットは自由主義と民主主義をそれぞれ定義した上で、両者は両立しえないものと考えた。そしてシュミットは自由主義を放棄し、民主主義を擁護するという論を展開している。
1章の終盤では、フリードリヒ・ハイエクと新自由主義の関係性について取り上げられている。ハイエクの理論は一般的には、新自由主義と親和的であり、政策の理論的支柱であるとされている。しかし森氏によれば、ハイエクの理論と新自由主義は重なる部分もあれば、重ならない部分もあるとして、ハイエクと新自由主義を結びつける評価に距離を置く必要があるとしている。
ハイエクは市場経済における「自生的秩序」の成立を重視し、自生的な機能を歪曲するような公的介入を排除することを主張した。この点については、新自由主義との関係性を見出すことができるが、ハイエクの考える政治的な自由主義は新自由主義のそれとは異なるものなのだという。ハイエクは民主主義に対して一定程度に制限を与える必要があると考えた。しかしその制限は「一般性」を備えた「法の支配」による質的な民主主義の統制であるとされている。こうしたハイエクの理論は、ポピュリズム的な政治手法を軸に据える新自由主義とは対極的であり、政治的自由主義の面ではハイエクと新自由主義は重なりえないと森氏は主張している。

2章では民主主義の歴史的展開の中で、これまで民主主義にいかなる意味付けがなされてきたかについて論じられている。
古代ギリシャにおける民主主義・民主政に対する議論は、主に為政者の数と質の関係性を論じるものが中心であり、古代から中世に至るまでの民主主義は、そうした為政者の寡多と支配の優劣を論じるものであった。そして近代になり、ジャン・ボダンが主権概念を提唱し、支配における「正当性」という側面に注目が集まるようになると、為政者の数という視点に変化が生じることとなる。とりわけ社会契約説は、「正当性」の根拠を多数者の意思に見出す理論であったことから、民主主義を多数者支配と結びつけるという前提が近代に入り確立したのだという。
しかし1960年代以降、こうした民主主義の前提は切り崩されることになったという。60年代以降に起きた「マイノリティ運動」は、従来の民主主義が基盤としていた多数者支配に対して抵抗の姿勢を示しただけではなく、自由主義の根底にある個人主義の理念とも対立するものであった。かつての少数者の擁護が自由主義の立場からなされていたのに対し、60年代以降の運動はその自由主義的な枠組みさえもを批判の対象とした点が特徴的であるとされる。
この「マイノリティ運動」は、少数者の存在をそれ自体として承認させることを目的とした「差異の政治」へと結実し、民主主義の理念にも影響を及ぼすこととなった。差異の承認をめぐる運動がなされることにより、民主主義に「承認」や「差異」「尊厳」など、従来の民主主義が見落としていた価値を付与することになったのだという。

3章はナショナリズムと民主主義について論じられている。
近年の世界的な傾向とされるグローバル化は、ナショナリズムと一見対立する動きのようにも見えるが、グローバル化が進展するのと並立して、ナショナリズムも活性化していったという動きも確認されているという。
また、ナショナリズムは一般的には右派的な運動だとされているが、ナショナリズムは時として左右の両義的な意味を持つ場合もあると森氏は指摘する。森氏はそうした両義性を説明するにあたり、フランス革命を例に出している。フランス革命は普遍的な「権利」を追求するのと同時に、フランス国民からなる特殊な「国民国家」を形成するための運動であった。こうしたフランス革命の2つの側面から分かるように、国家を志向するナショナリズムはいかなるときでも特殊的な存在だけを希求するものではないのだという。
次に民主主義と戦争について取り上げられている。森氏によれば、戦争は主に貴族や国王にとっての関心事であり、民主主義と結びつくものではなかったという。しかし国民により組織された「国民軍」が発明されて以降は、民主主義が戦争と結びつくようになったとされている。
民主主義と戦争の関係についての議論の中で「民主主義による平和」という論が注目されている。これは民主主義国同士は戦争をせず、戦争を行うのは非民主主義国同士か民主主義国と非民主主義国同士の場合に限られるとするものである。森氏はこの「民主主義による平和」論は、民主主義国と非民主主義国という価値の非対称性を論の前提としてしまっていることから、民主主義国による戦争を短絡的に説明することにつながる恐れがあるとしている。
そして3章の後半ではポピュリズムの登場について中心的に論じられている。
森氏は北米やラテンアメリカで生まれたポピュリズムの元祖の姿を説明した上で、新自由主義に伴い現れた現代型のポピュリズムとの比較を行なっている。元祖ポピュリズムと現代型ポピュリズムは、その発生背景や運動の主体、支持をした集団などで対極的な性質を備えているということを森氏は指摘している。
また森氏は歴史上でのポピュリズムは「ファシズム」や「ボナパルティズムズム」と部分的に類似する側面もあるため、時として非民主的支配に転化しうるということを主張している。
近年現れたポピュリズムの背景には「モラリズム」があると森氏は指摘している。新自由主義に伴うポピュリズムの発生は、60年代の社会運動の反動と関係しているとされる。60年代のリベラルな社会運動に対し、その限界や危険性を掲げる「モラリズム」が、ポピュリズム成立への後押しをしたのだという。

4章は民主主義における「主体」や「ガヴァナンス」の視点が示唆することについて論が展開されている。

一行抜粋…この作業を通じて、あらためて、現代の民主主義とは単一のものには解消することのできない複合的な問題の集合である、ということを感じた。それぞれの問題については、たいていこれまで論じられてきたことであった、とくに新しい点は少ない。私のねらいは民主主義論という天井を被せることで、個々の論点相互間の布置関係を明らかにすることである。言ってみれば、夜空に輝く個々の星ではなく、それらが構成する星座および星座間のつながりを前面に持ってくることである。そうすることによって、民主主義がいつのまにか、これまで知られていなかった、複雑な共存ルールへと静かに変貌していることに、気がついてもらえるだろう。(42頁)

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