『ラディカル・デモクラシーの地平 自由・差異・共通善』/千葉眞

主題…一般的にデモクラシーという言葉は、有権者による投票や議会による政治を想起させやすい。しかし「ラディカル・デモクラシー」は、そうしたデモクラシーの解釈の限界に基づき、デモクラシーの「根元」にある価値を重視する。「ラディカル・デモクラシー」は現代の社会においてどのような意義や可能性があるのか、検討する。

序章では本書で扱う「ラディカル・デモクラシー」について、その特徴や具体例、理論としての方向性など論じられている。
千葉氏は、20世紀に起きた出来事のうち「東欧革命」こそが「ラディカル・デモクラシー」を体現する出来事であったとして着目する。「東欧革命」は市民による既存の体制に対する自発的な民主化行動の帰結であったことから、「市民の参加」をはじめとする「ラディカル・デモクラシー」の要素が垣間見られるのだという。
こうした「東欧革命」の側面を踏まえ、千葉氏は「ラディカル・デモクラシー」を「一般の民衆の発意と生活に根ざしたデモクラシーへの固有の視座」と定義している。従来の議会や投票を中心としたデモクラシーではなく、市民の発意や行動、自発的なネットワーキングなどのデモクラシーの「根元に立ち返る」ことに重きを置いた理念こそが「ラディカル・デモクラシー」なのだという。
この「ラディカル・デモクラシー」のひとつの側面を指摘するために、千葉氏はトクヴィルのデモクラシー理解を引用している。トクヴィルはデモクラシーの「本質」を探求しただけではなく、デモクラシーを「原理」として捉えようとした点が重要であると千葉氏は指摘している。ここでいう「原理」とは、歴史的潜在力を帯びており、未来に向けて動態的に潜在力を開示する志向性を指している。千葉氏によれば、デモクラシーを「原理」的に解釈することは、デモクラシーを「未完のプロジェクト」として捉えることにつながり、デモクラシーを探究する上では不可欠の視点になるのだという。

1章ではシェルドン・ウォリンの「ラディカル・デモクラシー」論について、その成立背景や内容、射程について論じられている。
ウォリンは戦後のアメリカ社会が官僚制化や資本主義の進展により、硬直的な非民主的国家になりつつあることを問題視し、ウォリンは官僚制や利益団体が主導する議会政治、政党の組織化に対して警鐘を投げかけている。
そしてさらにウォリンはアメリカの非民主化に関わるものとして「進歩イデオロギー」の存在を挙げている。ウォリンによれば「進歩イデオロギー」が、資本主義、近代科学、官僚制からなる「三位一体」と結びつくことで、政治的なるものが脱色化された「脱政治化」に至るのだという。そしてウォリンは、この事態に対抗して「ラディカル・デモクラシー」の理論を打ち出したとされている。ウォリンによれば、「ラディカル・デモクラシー」論は「進歩イデオロギー」に対する批判になるのだという。
またウォリンは80年代以降、私的領域が公的領域に陥入する事態を懸念している。ウォリンはそうした陥入によって成立する事態を「政治経済体制」と名付け、「脱政治化」の顕著な例であるとしている。
千葉氏によればウォリンがこのように非民主的体制を批判し、「ラディカル・デモクラシー」を打ち出すのは、従来の多元主義的自由主義論の射程に限界があるという事実に由来しているという。ウォリンは脱政治化や政治的受動性の定着を現代的課題として捉え、それに対応するためにデモクラシーの根元にまで立ち返り、デモクラシーを不断に探求する視点が不可欠であると主張しているという。

2章ではウォリンによる国家やポストモダンの考察が紹介されている。
ウォリンはジョン・ロールズの正義論を自身の政治理論の枠組みから批判したとされている。ウォリンは政治理論における言説を「契約」と「生得」に分類し、両者の相違を「歴史性」の有無に見出した。ウォリンによれば、ロールズの正義論は「歴史性」を欠いた「契約」としての理論であり、ウォリンはロールズの論を合理的選択理論や政策科学としての色合いが強いということを批判している。
次にウォリンによるポストモダンについての考察が説明されている。ウォリンは近代における国家の正統性は、市民社会と国家の非対称的な関係性から生じるものであるとしている。他方でポストモダンはそうした関係性から正統性を付与されるということが困難になることから、ポストモダンにおける国家は自らを根拠として正統性を供給する「自己正統化」の事態に直面しているとウォリンは分析しているという。
2章終盤ではウォリンの「ラディカル・デモクラシー」の欠点としての実現可能性に触れられている。参加や討議の価値を重視するウォリンの「ラディカル・デモクラシー」論は、その実現可能性の低さから楽観主義的であるという批判がなされるという。これに対して千葉氏は、ウォリンの「ラディカル・デモクラシー」論は、ウォリンが糾弾した「政治経済体制」を拒否する原理的選択としての意味があると主張している。またウォリンのデモクラシー論における「原理」としての性格が、デモクラシーを「未完のプロジェクト」にたらしめるという側面に特権性があると千葉氏は指摘している。

3章は「市民の自由の政治」を実現するためのデモクラシーの構想について論じられている。
千葉氏は「市民の自由の政治」の実現が現代の社会に求められるべきであると考えている。そしてその「市民の自由の政治」の核心にあるものとして「自発的共同結社」を挙げている。千葉氏は、こうした「自発性」が今日のデモクラシーとの関係において重大な価値になってきているということを繰り返し主張している。
3章後半では、日本社会のデモクラシーの変遷と課題について言及されている。前後日本は、戦後民主主義という形でデモクラシーの実現・開花に向けて取り組んできた。しかしデモクラシーを掲げながらも、社会における分断や排除、差別は依然として生じており、そうした側面において日本のデモクラシーは未成熟であるとされている。千葉氏はこうした事態を踏まえ、日本のデモクラシーにおける「共生の原理」の必要性を主張する。デモクラシーにおける差異の承認やマイノリティの視点を検討されなければならないとしている。

4章では「ラディカル・デモクラシー」における「共通善」の存在について論じられている。

5章はデモクラシーとナショナリズム、グローバリズムとの関わりについて論じられている。

一行抜粋…デモクラシーの「原理」的探求は、いまだに実現されていないデモクラシーの潜在的可能性を矮小化することは許されない。こうして「原理」的探求は、いまだに実現されていないデモクラシーの可能性に照準を合わせていく。トクヴィルのデモクラシー理解は、部分的にこのような「原理」的把握の方法に依拠していた。それは、ダイナミックな歴史現実としてのデモクラシーの不完結性に対応するものと言える。したがってそれは、積極的な意味においてもデモクラシーを「未完のプロジェクト」として理解する視座に立脚しているといえよう。(33頁)

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