水野和夫・大澤真幸『資本主義という謎 「成長なき時代」をどう生きるか』(NHK出版、2013年)
主題…資本主義は近代における核心的な原理である。今日では自明となった原理であるにもかかわらず、資本主義を取り巻く様々な事柄には謎も多い。社会学的・経済学的視点からその謎について考える。
1章では、資本主義とは何かについて説明がなされた上で、「資本主義は特殊な現象か、普遍的現象か」という問いへの議論がなされている。
市場経済を前提として合理性を追求する資本主義は、今日においてグローバルスタンダードとなっている。そうした意味では資本主義は普遍的な現象とも言えるが、資本主義が特定の歴史を前提として生まれた点を踏まえると、特殊な現象であるとも言える。大澤氏は、贈与にかんする議論を取り上げて、資本主義的な合理性の追求が歴史上、決して普遍的であったわけではないことを説明する。過去の歴史、および特定の地域においては、今日の資本主義の論理では説明できない、不合理としか言えない交換の原理が存在したのだという。
また、なぜ資本主義が近代のヨーロッパにおいて生まれたのか、という問いへの議論もなされている。水野氏は資本主義の誕生を「長い16世紀」の議論とあわせて説明する。中世の慣習・制度が解体されて近代の幕開けを説明する「長い16世紀」の議論において、「長い16世紀」の末期に利子率が極端に下がる「利子率革命」が起きたことを水野氏は強調する。水野氏によればこの「利子率革命」によって「長い16世紀」が終わり、近代における資本主義の成立を迎えたのだという。
大澤氏は資本主義がなぜイスラーム圏で誕生せず、キリスト教社会において生まれたのかを説明している。大澤氏によれば、資本主義と親和的な「法人」という概念は、神以外の永続性を認めないイスラームの価値観と相入れないため、資本主義はイスラーム圏での誕生を見なかったという。他方、水野氏はキリスト教社会で資本主義が生まれた理由を、資本主義における行動原理である「蒐集」との関係から説明している。
2章では、国家と資本主義の関係や、世界史的な視点から見る覇権国の変遷について議論がなされている。
資本主義は国家といかなる関係にあったのか、水野氏は利子の歴史から説明を加えている。大澤氏は国家と資本主義の関係について次のように説明する。国家は、古典派経済学の始点であるスミスの議論では消極的な存在として位置付けられているものの、近代においては、国家による金融のコントロールが不可欠であることから、歴史的にみても国家と資本主義は密接不可分なものとも言えなければ切り離された関係というわけでもない、としている。
2章後半では中国が新たな覇権国となるか、という議論がなされている。大澤氏・水野氏は、中国がそれまでの覇権国が築いてきた原理に乗った上で国力を拡大しているにすぎない点やアカウンタビリティの不在といった点から、中国が覇権国となる可能性に否定的な見解を示している。
3章では、1450年から1650年にかけてのシステムの転換を説明する「長い16世紀」になぞらえて、1970年から現代にかけての時期を「長い21世紀」と呼び、転換期としての「長い21世紀」について議論を展開している。
水野氏は中世から近代にかけてのシステムの転換を示した「長い16世紀」と、1970年代から現代までの歴史に、重なり合う点が多いということを指摘する。水野氏によれば、そうした重なり合いから、現代はある種の転換点にあるとも言えるのだという。
4章では、「成長なき資本主義は可能か」という問いに対する議論がなされている。
大澤氏は経済学という学問がいかなる学問であるかに触れる。大澤氏は、経済学者やエコノミストの間で大きく見解が分かれがちであることから、経済学の根底にある思想自体に誤りがある可能性を指摘する。この大澤氏の指摘に対して水野氏は近代経済学が一つの国家を前提としており、経済学には世界経済を説明する理論が不足しているという点を挙げている。また、「成長なき資本主義」について水野氏は、日本の国債残高から見て困難であるとしている。
5章では、資本主義のグローバル化に伴い生じた格差について中心的に議論がなされている。
一行抜粋…かつてウィンストン・チャーチルが「民主主義」に関して述べたことは、資本主義にも、いや資本主義によりいっそう、あてはまる。「資本主義は最悪のシステムである。しかし、資本主義以上のシステムは存在しない」(8頁)。