『熟議の理由 民主主義の政治理論』/田村哲樹
主題…理性的な熟議を通した意見の交換を重視する「熟議民主主義」この「熟議民主主義」は、排除や分断が著しい社会において、規範的な民主主義の形として注目を集めてきた。なぜ「熟議」を重視する民主主義が、現代の社会において求められるのか。その理由と、規範的な熟議民主主義の形を探求する。
1章ではなぜ、現代の社会において民主主義が求められるのかについて、社会理論的な洞察を踏まえて論が展開されている。
1節では、民主主義の必要性を否定する議論としての「統治能力の危機」論の説明をした上で、それに対する批判がなされている。田村氏は、民主主義の肥大化を背景として70年代以降に注目された「統治能力の危機」論を、民主主義を批判する議論として提示する。この「統治能力の危機」論は、民主主義を批判し、社会的な権威を確立することの必要性を説得するのだという。ここで田村氏は、「統治能力の危機」論が掲げる民主主義批判を一つずつ検証している。その中でも田村氏は、「統治能力の危機」論が理想とする社会的な権威の確立による民主主義の抑制に対し、批判を展開している。田村氏は、「統治能力の危機」論に対する批判の視座として、アンソニー・ギデンスらの現代社会論を引用する。今日の「再帰的近代化」社会と呼ばれる社会においては、統一的な権威が機能するのはきわめて困難であることから、「統治能力の危機」論が主張する社会的権威の確立は説得力に乏しいものになると田村氏は指摘している。
2節では、1節で指摘した「再帰的近代化」をもとに、民主主義が求められる理由を説明している。田村氏は、「再帰的近代化」が進む社会は、マーク・E・ウォーレンのいう「社会的基盤の喪失」に結びつくと主張する。この「社会的基盤の喪失」とは、意思決定のあらゆる場面において「不確実性」が随伴する状態を指すのだという。田村氏は、この「不確実性」が随伴する社会状態にあるがゆえに、集合的に意思決定を進める民主主義によって「確実性」を取り戻すことが必要であると主張し、民主主義が求められる理由を論証している。
3節では、「再帰的近代化」社会が進んだ帰結として起こりうる否定的な事態の説明がなされている。
2章では、私的利益の追求を否定する形で展開した民主主義論の分岐について論じられている。
1節では、民主主義論の一つの分岐の形としての「熟議民主主義」について、その背景的理念や正当化根拠の説明がなされている。「熟議民主主義」とは、人々の間での理性的な熟議によって、意見の交換や合意形成を図ることを重視する民主主義のあり方を指す。田村氏は「熟議民主主義」が規範的な民主主義の形として要請される理由の一つとして、私的利益を追求する政治像を否定している点を挙げている。「熟議民主主義」は、自己利益中心の政治像を否定し、公的な諸価値の追求、すなわち「公共善の実現」に焦点を当てていることに意義があるのだという。また、田村氏は「熟議民主主義」の意義の一つとして、熟議過程における「選好の変容」を重視する。「熟議民主主義」は、熟議参加者の間での熟議を通して、固定的であった選好が他者の視点を介して変化するという「選好の変容」を要素の一つとしている。この「選好の変容」は、「理性」の働きを重視する「熟議民主主義」にとって不可欠の契機であり、「統治能力の危機」論に対する乗り越えの可能性を示しているのだという。
2節では、「熟議民主主義」とは異なる形で私的利益の追求を批判する民主主義論としての、「闘技民主主義」の説明がなされている。「闘技民主主義」の論者であるシャンタル・ムフは、「熟議民主主義」における「敵対性の次元」の欠如を批判する。ムフは、民主主義に「排除ー包摂」の関係が不可分に結びつくことを指摘し、民主主義は「対抗者同士の闘技的対立」を不可欠の要素であると主張する。それゆえに、ムフは対立の契機を欠如し、合意形成に主眼を置く「熟議民主主義」の根本的な誤りを批判するのである。また、「理性」を重視する「熟議民主主義」に対し、「闘技民主主義」は「情念」の表れを重視するとされている。「熟議民主主義」と「闘技民主主義」は、私的利益追求という批判対象を共通させながらも、さまざまな側面で差異が見受けられるのだという。
3章では、4章で「熟議民主主義」を土台とした規範的な民主主義論を論証するにあたり、「熟議民主主義」論に対してなされる批判の検討と、「闘技民主主義」に対する熟議的な側面との接点の考察がなされている。
1節では、「熟議民主主義」論への批判として、「理性」中心性、「選好の変容」の正統性、熟議の単位などの批判の検討がなされている。
2節では「闘技民主主義」の問題点と、熟議民主主義との接点の可能性の模索がなされている。田村氏によれば、闘技民主主義の問題点の一つは、「敵対」を「闘争」へと転換させる「民主主義的シティズンシップ」の具体的な確立方法を提示していないことにあるのだという。そこで田村氏は、「敵対」を「闘争」に移行させる契機として、熟議による「選好の変容」が挙げられるのではないかと指摘している。
4章は、熟議民主主義が「対立」の契機を取り込み、分岐以後の規範的な民主主義はいかに構想されるかについて、議論が展開されている。
1節では、熟議民主主義に「情念」が導入される方法の考察がなされている。熟議民主主義の特徴の一つが「理性」の重視であり、この点は「情念」すなわち「世界観をめぐる争い」を排除しているとして批判がなされてきた。田村氏は、熟議民主主義に「情念」を導入する方法として、ヤングのコミュニケーション形式の類型化を引用する。田村氏によれば、ヤングのコミュニケーション様式の類型の一つである、「レトリック」を熟議へと導入することで、熟議民主主義と闘技民主主義の接合が図れるのだという。ただし、田村氏は、選好変容のメカニズムの動機付けのために、「情念」を導入しつつも、「理性」が常に優位されるべきであると主張している。
2節は熟議と利益の関係の再検討を行なっている。
3節では、いかなる「選好の変容」が求められるかという論点につき、「紛争の次元についてのコンセンサス」について論じられている。また、4節では熟議における結論の到達にかんして、単一の理由によるものではなく「異なる諸理由に基づく同意」の可能性に言及している。
5節では、民主主義と「権威」の関係について論じられている。民主主義は「強制」や「権威」と反するものと認識されるが、時として民主主義においてそれらの必要性が議論されてきた。田村氏は、民主主義における「権威」の正当化を、争点を分化することで説明を試みている。田村氏によれば、争点は、不一致が存在し、争われている「政治的」争点と、異論なくルーティンで決定される「固定的」争点に分けられ、後者の「固定的」争点については、決定のために「権威」が認められるべきなのだという。すなわち、「権威」が認められる場面を争点によって区分することで、正当性を説明するのである。
5章では、民主主義が行われる空間について、「制度的次元」と「非制度的次元」という分類のもとで、それぞれの機能の違いなど論じられている。
1説では、選挙で選出された議員で構成される議会などの「制度的次元」における民主主義に焦点が当てられる。田村氏は、政策決定を行う「制度的次元」と市民社会の関係から、「制度的次元」における民主主義の意義を説明する。「制度的次元」と市民社会の関係を論じたのが、ハーバーマスの「複線モデル」であるとされている。「複線モデル」とは、市民社会において市民間で議論が交わされ、意見の形成がなされた上で「制度的次元」で意思決定がなされることによって、「制度的次元」での決定に正統性が付与されると考えるものである。こうして領域を区別することで、分断社会における問題解決に寄与する可能性が開かれるのだという。
2節では、「非制度的次元」における熟議の意義や役割の説明がなされている。田村氏は、「非制度的次元」の熟議の意義を「親密圏における熟議」としての意義と、「脱社会的存在」との熟議による社会的基盤形成という意義に見出している。
6章では、「規範理論」と「経験的研究」がこれまでいかなる関係として捉えられてきたのかについて、整理がなされた上で、双方の対話の可能性が模索されている。
一行抜粋…すなわち、価値観が多様化し、場合によっては「分断された社会」と言えるかもしれないような現代社会において、それでも、他者とともに生き、なにごとかをなし、独善的ではないルールを作ろうとするならば、結局、対話・話し合いを行うしかないのではないか、と、このことが、様々な批判にもかかわらず、本書が必要な民主主義として熟議民主主義を論じる理由である。(まえがき3頁)