『排除の空気に唾を吐け』/雨宮処凛
主題…日本の年間自殺者の数は約3万人にも及ぶ。これは16分に1人が自ら死を選んでいるという計算になるという。この数字が表していることは、社会の「生きづらさ」や「排除の空気」が人々に少なからず影響を与えているということだろう。その「生きづらさ」や「排除の空気」について、事件や事例をもとに検討を深める。
1章では「秋葉原無差別殺人事件」と「派遣労働」の関連性について取り上げられている。
2008年、当時25歳だった被告が8人もの人を路上で殺害する「秋葉原無差別殺人事件」を起こした。この被告はいわゆる非正規雇用の「派遣労働」の職に就いており、雨宮氏は被告が「派遣労働者」であった事実に注目し、事件との関連から「派遣労働」の実態を浮き彫りにする。
非正規雇用である「派遣労働」は、景気変動に伴う企業の調整弁として位置付けられるため、正規雇用に比べて不安定な状態にあることを雨宮氏は主張する。また、「派遣労働」は正規の職員よりも劣悪な処遇がなされる傾向があり、労働者の身分のみならず、人間としての尊厳や肯定感にすらも否定的な影響を与えるものなのだという。
雨宮氏はこうした「派遣労働」の実態から、「派遣労働」は派遣労働者にとっての「絶望」を生むシステムとなっていることを主張する。派遣労働者は経済的・肉体的・精神的にも劣位な地位に立たされるため、絶望的な感情を抱くことを強いられるのだという。そして「秋葉原無差別殺人事件」の被告が「派遣労働者」であったという事実からも、「派遣労働」における「絶望」の実態が垣間見られるのだという。
2章では日本における「自殺」と生きづらさについて考察がなされている。
日本では年間3万人近くの人が「自殺」による死を選択しており、その実数は「16分間に1人が自殺している」ことを意味している。
雨宮氏は「自殺」について考える上で、湯浅誠氏が提唱した「5重の排除」という考え方について言及する。「5重の排除」とは、人が貧困状態に陥るまでに5回の排除を経験するということを指す。5回のうち、最後の1回はあらゆる制度や関係から排除された自分を否定する「自分自身からの排除」であるとされる。雨宮氏はこの「自分自身からの排除」こそが「自殺」への入り口であり、排除が積み重なることで日本の「自殺」が起きているということを主張している。
3章は「生きづらさ」を抱えた人々による労働運動の繁栄について取り上げられている。
近年、「生きづらさ」を抱えて精神的疾患を患う「メンヘラー」と呼ばれる人々による運動が行われるようになってきたとされている。雨宮氏はこうした流れを肯定的に評価する。というのも、「メンヘラー」とされる人々は90年代以降、「生きづらさ」を自らの内部に抱え込み、リストカットやオーバードーズを行い、時としては自殺を選択する傾向が強かったからであるという。しかし近年になり、そうした「生きづらさ」を抱えた人びが内部にふさぎ込まずに、ネットなどを通して同じ「生きづらさ」を抱える人々と結びつくことで、「生きづらさの連帯」として労働運動・生存運動が行うことができるようになったのだという。
こうした労働運動や生存運動に参加することは、自らの「生きづらさ」の原因は個人にあるのではなく、社会によるものであるということを知る契機になるということを雨宮氏は重視している。
4章では貧困による飢餓事件やネグレクト事件をもとに、日本社会の風潮や姿勢における問題点が指摘されている。
日本には経済的貧困を解消するための各種社会保障制度が存在する。しかしその制度は実質的に十分な運用がなされていなかったり、制度自体が不十分であったりしている。今日の日本でも実際に起きている飢餓事件は、その事実をまさに表していると言える。
こうした「制度の貧困」による飢餓や育児放棄に関して、日本の行政や世論には問われるべき問題がある。それが飢餓や育児放棄の責任を「家族」に帰するという傾向である。飢餓事件やネグレクト事件に対する行政や世論の反応は、いずれも家族からの支援の不足や怠慢を指摘するものだった。雨宮氏によればそこには「制度の貧困」を糾弾する視点はなく、「家族」の責任を追求する声が前景化していたという。
5章は1999年の池袋通り魔事件について取り上げられている。
ここでは池袋通り魔事件の造田博氏の生い立ちや事件までの経緯が説明されている。雨宮氏によれば、造田氏による通り魔事件は90年代の「貧困」や「排除」により造田氏に降りかかったあらゆる理不尽が爆発したことによる事件であったと分析している。造田氏は思春期の頃から自らの人生について、あらゆる構想を立てていたにも関わらず、両親の借金に端を発する貧困や排除により、理不尽な状況に立たされざるを得なかったのだという。
また雨宮氏は造田氏が「戦争」を望んでいたことに着目する。造田氏は自らの置かれた理不尽な状況がすでに固定化されたものであることに気づいており、「戦争」が起きることで社会が流動化することを望んでいたのだという。
6章は飢餓と子育ての問題について取り上げられている。
日本では経済的事情から、子育てが十分にできず、子どもが飢餓する事例と親が飢餓する事例の両方があるとされている。そしてそうした事例では特にシングルマザーであることが多く、このことから日本では子育てについて母親に経済的・肉体的負担が集まりすぎているという。
7章では「派遣切り」により所持金ゼロの状態になることで、ホームレスとしての生活を強いられるという現実について取り上げられている。
8章は「民営化された戦争」と排除の関係について論じられる。
海外で起きている「民営化された戦争」は、派遣労働という形で経済的弱者を兵士として動員する形がとられているという。この事実からもわかるように、経済的に劣位な立場に立たされており、社会的に排除された経験を持つ人々は、時として戦争に駆り出されることさえもあるということである。雨宮氏はこれを過去の出来事ととらえず、直視すべき事実であると主張している。
一行抜粋…「雇用と住まいを諦めるな」派遣切りによって結成された労働組合はそう訴える。なんだかとても21世紀の日本のこととは思えない。しかし、「排除」された人々は、「生きさせろ‼︎」と確かに声をあげているのだ。(164頁)