『デモクラシー』/千葉眞
主題…「デモクラシー」は政治における理念の一つとして尊重されている。しかしその「デモクラシー」のあり方は画一的なものではなく、時代の要請に応えながら変容を遂げてきた。現代においては更なる変容の傾向が確認されている。「デモクラシー」を徹底し、深化させるためにはいかなる視点が重要なのか考察する。
第1部では古代ギリシャのデモクラシーと西欧近代のデモクラシーの相違や特徴について取り上げられている。
1章では古代ギリシャにおけるデモクラシーの特徴や、現代のデモクラシーにまで通底して尊重されている理念について説明がなされている。
古代ギリシャのアテナイでは、市民、すなわちデモスにより共同の討論や審議に基づく統治がなされていた。このデモスによる支配がデモクラシーの起源とされている。とりわけ千葉氏は、そのアテナイにおけるデモクラシーは「イソノミア」と「イセーゴリア」といった理念に支えられていたということに注目する。前者は「政治的平等」を指し、市民間の討論の場では参加者は平等に扱われるというものであり、後者は市民の「発言の自由」を意味している。
千葉氏はこの「イソノミア」と「イセーゴリア」を古代ギリシャのデモクラシーを支える価値として指摘するが、特に「イソノミア」はデモクラシーにおける核心的な位置を占めていたと主張する。「政治的平等」を意味する「イソノミア」は、いかなる市民も「ノモス」の下では平等であるという理念に基づき、市民間での社会的・経済的不平等を問わない平等な政治参加を保障していたという。
しかし不平等を問わずに平等な政治参加を許容する反面、アテナイのデモクラシーには排他性があったため全面的に肯定することはできないと千葉氏は述べている。政治参加を許されたのは市民男性のみであり、女性や奴隷、外国人はその場から排除されており、かつその排除が正当化されていたため、全面的に肯定的な評価を下すのはためらわれなければならないとしている。
古代ギリシャ型のデモクラシーは平等や自由が尊重され、現代では評価されている反面、当時は厳しい批判の対象となっていた。トゥキディデスは『戦史』の中で、民主政は私欲にまみれたデマゴーグによる民衆扇動を可能にするとして、民主政を批判している。
またアリストテレスも民主政に肯定的な評価を下さなかったということも知られている。しかし千葉氏は、アリストテレスが民主政の可能性を部分的に指摘していたことがあるということに着目する。千葉氏によればアリストテレスは「多数者の思慮」という観点から、条件付きで民主政の価値に触れていたという。アリストテレスは、多数者による共同討議や共同審議は少数者の賢慮の限界を克服することができると考え、そうした見地から民主政の「多数者の思慮」に価値を見出しているという。
2章では近代の西欧型のデモクラシーの特徴や変容について取り上げられている。
千葉氏は近代西欧のデモクラシーの特色として、その起源が主権国家の成立と結びついていることをあげる。17世紀に主権国家体制が成立し、国民国家が根付いていくことで、国家主義と国民主義を基底とする「ナショナル・デモクラシー」が形成されたという。そしてこの「ナショナル・デモクラシー」が近代西欧のデモクラシーの原型となったとされている。
ナショナリズムと結びついた近代西欧のデモクラシーは、そのナショナリズムとの結びつきという観点から短絡的に判断を下すことは困難であるとしている。それはナショナリズムが排外的な動きと結びつくこともあれば、デモクラシーの尊重を求める動きとして現れることもあるからだという。しかし20世紀におけるナショナリズムとデモクラシーの結びつきは、特に排外的な傾向の強いものだったと千葉氏は指摘している。20世紀に入り台頭した「インペリアル・デモクラシー」は、ナショナル・デモクラシーが排外的な帝国主義に傾斜した例の一つなのだという。
また近代西欧のデモクラシーの特色として「自由主義」との結合を挙げている。そして「自由主義」との結合により、「代表制民主主義」が確立したことが近代西欧のデモクラシーの一つの契機となったとされている。
千葉氏は2章終盤にて、20世紀から21世紀にかけての近代西欧のデモクラシーの動揺について触れている。近代西欧のデモクラシーの特徴であった主権国家という枠組みが、グローバリゼーションを経て相対化していくことで、デモクラシーのあり方は変容を強いられてきているのだという。
また、千葉氏はシェルドン・ウォリンの論を引き、近年のデモクラシーの異なる変容の姿を指摘している。ウォリンは自由主義を基調としたデモクラシーの資本主義との結びつきは、「経済政体」によるデモクラシーの締め付けへと帰結したとしている。経済的ニーズが政治的な関心事へとなることで、デモクラシーの機能が「脱政治化」してしまうという危惧をウォリンは訴えたとされている。
第2部ではここまでの議論を踏まえ、デモクラシーの徹底および深化に向けた考察がなされている。
1章はデモクラシーを運用する人々に内在する「精神の自由(リベルテ・モラル)」のあり方や現代におけるその姿について論じられている。
「リベルテ・モラル」について始めて触れたのがルソーである。そしてルソーから強い影響を受けた中江兆民は、この「リベルテ・モラル」に言及し、ルソーの論を更に進めたとされる。中江兆民は、「リベルテ・モラル」をデモクラシーなどのあらゆる集合的行為を実現するための源泉となるものと位置付け、「リベルテ・モラル」により自由や平等に基づいた気概が果たされると中江兆民は論じている。すなわち中江兆民はデモクラシーの精神的源泉として「リベルテ・モラル」を位置付けていたということである。
また古代における「リベルテ・モラル」の系譜についても触れられている。千葉氏は、ソクラテスがデモクラシーにおける「リベルテ・モラル」に関わる論を展開していたことに注目する。ソクラテスは自己吟味や自己検証を通した自己内の矛盾の不在がデモクラシーの成立のために不可欠であるとした。千葉氏によれば、この自己内の調和という「魂の配慮」こそがソクラテス的な「リベルテ・モラル」なのだという。
最後に現代における「リベルテ・モラル」の表れとして、チャールズ・テイラーの「本来性の倫理」について取り上げられている。テイラーの「本来性の倫理」は、個人や集団のアイデンティティや差異の表現や承認に関わるものなのだという。千葉氏によれば、現代の多文化主義や差異の政治と呼ばれる潮流は、この「本来性の倫理」による倫理的要請に依拠しているのだという。
2章では明治時代以降の日本のデモクラシーをめぐる石橋湛山の議論や、帝国主義とデモクラシーの結びつきを論じたゴードンの論、戦後のデモクラシーに関わる丸山眞男の議論について取り上げられている。
一行抜粋…デモクラシーの諸制度は、それを支える人々のエートスや心性のあり方に大きく依存するであろう。さらにデモクラシーは、つねに「未完の課題」という基本的性格を有する。その限りにおいてデモクラシーは、つねに試行錯誤をしながらも自己修正に自己修正を重ねつつ、進行形で前進する類の政治思想であり政治制度であるといえよう。(130頁)