『戦闘美少女の精神分析』/斎藤環
主題…セーラームーンやナウシカなど、日本のアニメやマンガには多くの「戦闘美少女」が登場する。海外の作品にも戦闘する女性は登場するが、海外の作品の女性は、日本のような可憐な少女ではなく、力強い女性として描かれている。ここで問題になるのが、なぜ日本においてのみ、可憐な少女としての「戦闘美少女」が描かれ、支持を集めているのかという点である。日本において「戦闘美少女」が形成され、消費されるようになった精神的・環境的背景を分析する。
1章は「おたく」に関わる言説の変遷や現状について述べられている。
斎藤氏は、「おたく」と「マニア」の違いから、「おたく」の特有さを指摘する。斎藤氏によれば、「マニア」は「実体」を収集し、嗜好とする一方で、「おたく」は「虚構」を収集し、嗜好とするのだという。この「実体」と「虚構」という対象の相違において、「おたく」の特殊性が確認できるのだという。また、「おたく」と「マニア」の相違として、「おたく」は「セクシュアリティ」が倒錯しているという点を斎藤氏は指摘している。
2章では「おたく」とされる男性からの手紙の内容が紹介されている。
3章は海外における「戦闘美少女」の描写の考察を通し、日本における「戦闘美少女」の特殊性を主張している。
美少女が武装し、敵と闘争を繰り広げる世界観をもつ「戦闘美少女」作品は、日本のみならず海外でも散見されるという。しかし、海外の「戦闘美少女」は、「戦闘」という要素と結びつくたくましさが目立つのだという。そのため、可憐な「美少女性」を維持しながらも、「戦闘」という世界観を維持する日本の「戦闘美少女」は、他国のそれとくらべ、極めて異質なのだという。
4章では「戦闘美少女」を「アウトサイダーアート」として巧みに描いた「ヘンリー・ダーガー」の生涯や技法について述べられている。
斎藤氏は、「戦闘美少女」を「アウトサイダーアート」として描いた「ヘンリー・ダーガー」に注目する。「アウトサイダーアート」とは、商売や発表を前提とせず、自らの思考の反映のためだけに描かれたアートだという。ヘンリー・ダーガーは、「ヴィヴィアン・ガールズ」という「戦闘美少女」を描いていたとされている。斎藤氏は、ヘンリー・ダーガーによる「戦闘美少女」の表現は、ダーガー自身の思考の顕著な反映であることに着目する。斎藤氏によれば、ダーガーは思春期的な思考を抱えており、「ひきこもり」的な傾向が見受けられるのだという。このことから、ダーガーによる「戦闘美少女」の表現は、日本で「戦闘美少女」が生み出される精神的背景を分析するために有効な視座なのだという。
5章は日本の「戦闘美少女」の形成史と類型化がなされ、分析が行われている。
武器や装備を武装し、敵と戦闘する「戦闘美少女」を描くためには、物語との一貫性から、「美少女」を力強い存在として描かなければならない。海外の「戦闘美少女」はこうした観点から、「美少女」に「力強さ」が随伴する形で描かれている。しかし、日本の「戦闘美少女」は、力強さと矛盾しうる「美少女性」を保ちながら「戦闘美少女」を描くことに成功しているのだという。5章では、こうした構造がいかに形成されたのかについて流れがまとめられている。
斎藤氏によれば、「戦闘美少女」は60年代以降に形成され、多様な形で定着していったという。そして斎藤氏は、日本における「戦闘美少女」は90年代にほとんど完成したという点を強調する。90年代以降の「戦闘美少女」は、90年代までに形成された「戦闘美少女」像の組み合わせから成り立っているのだという。
6章は、「戦闘美少女」が日本において生成された環境的・精神的背景について議論が展開されている。
斎藤氏は、日本で「戦闘美少女」が生産され、消費される空間としてのメディア環境の特徴を「無時間」「ハイコンテクスト」「多重人格空間」の3点にまとめている。これらの特徴からなるメディア環境は、極めて伝達性の高いものになるのだという。そして、斎藤氏はさらに日本の消費空間を虚構が「自律的リアリティ」として成立する空間として説明する。日本は西欧とは異なり、「虚構」自体が自律的にリアリティを備えることが可能なのだという。そして、その「自律的リアリティ」を成り立たせるものが「セクシュアリティ」であるとされている。「リアリティ」と「虚構」のバランスをとる機能が「セクシュアリティ」にはあるのだという。こうした論展開を踏まえ、斎藤氏は、倒錯的な「セクシュアリティ」のアイコンとして、自律的なリアリティを成り立たせるのが、「戦闘美少女」なのだという。斎藤氏はこうして、多形倒錯的なセクシュアリティの体現としての「戦闘美少女」の生成を説明するのである。さらに斎藤氏は、6章後半以降において、「戦闘美少女」がリアリティと結びつく契機としての「ヒステリーの反転」について分析を行なっている。
一行抜粋…そしてもっとも私を混乱させるのは、彼女たちの存在が獲得する一種のリアリティである。戦闘美少女という徹底した虚構的コラージュであるべきイコンが、欲望され消費される過程の中で獲得してしまう逆説的リアリティ。これこそが解かれるべき最大の謎ではないか。(11頁)