『隔たりと政治 統治と連帯の思想』/重田園江
主題…個人と個人の間には「隔たり」があり、その「隔たり」は多様な形で現れる。そうした「隔たり」に対して、政治思想はいかに「連帯」の実現へ向けて構想を練ることができるか。現代的な諸問題を題材として、「統治」と「連帯」の視点から、政治思想の考察を深める。
1章では犯罪学で議論される「コミュニティベース」の犯罪予防活動とゼロトレランスなどの「厳罰化」支持の傾向について、両者を結びつけて議論する傾向にたいして批判を展開している。
2000年代以降、犯罪を抑止するために、地域単位で犯罪を効率的に予防する活動が行われるようになってきた。住民同士の相互監視や、地域パトロールなどがこれにあたる。こうした「コミュニティベース」の犯罪予防活動は、今日の犯罪学領域で、頻繁に取り上げられるようになってきているという。他方で、犯罪学において、被害者の感情を考慮した司法のあり方をはじめとする「厳罰化」の流れも近年見られるという。重田氏は、この「コミュニティベース」と「厳罰化」という両者が結びつけて、論じられる傾向があることを指摘する。そして、重田氏はこれらそれぞれの起源を辿ると、基底に置く原理など、それぞれ異なっていることがわかると主張する。したがって、これらは必然的に結びつくわけではないのだという。
2章では社会における「リスク」の所在を研究した議論をもとに、「連帯」としての社会保険はいかに成り立つのかについて論じられている。
19世紀になると、「リスク」は個人に内在するものに限らず、社会的に実在するものであるという議論が生じるようになる。ケトレの「誤差法則」の研究などがその例であり、ケトレやデュルケムは個人を超越した「社会的リアリティ」の存在を主張したという。こうした個人を超越する「社会的リアリティ」は、「分割不可能な社会」の像を浮き彫りにするものであったと重田氏は指摘している。
こうした「分割不可能な社会」において、問題になるのが「連帯」としての社会保険制度をいかに構想するかという点である。「連帯」としての社会保険制度を実現するためには、社会を分割し、負担を配分しなければならない。そのため、実際の社会保険制度は、諸個人を制度的に「平準化」「画一化」して「平均人」と見なすことによって、個人間での「連帯」を可能にしているのである。
こうした「連帯」としての社会保険の可能性に対して、逆の方向に進んでいるのが、新自由主義時代における民間の保険制度であると重田氏は主張している。新自由主義が進み、規制緩和がなされた民間の保険制度は、個人間の差異に基づいた「リスクの細分化」を助長するものであったという。「リスクの細分化」は、「連帯」としての社会保険制度が実現した「平準化」とは異なり、個人間の差異によって保険商品の差別化を容認するものであったとされる。そのため、民間の保険制度は「連帯」の可能性を切り崩す側面があったのだという。
3章では「市場をめぐる統治」について、カール・ポランニーとミシェル・フーコーの議論をもとに考察がなされている。
重田氏は、「市場をめぐる統治」の問題は、市場擁護と反市場といった二項対立的な枠組みでは十分にとらえることができないと主張する。そこで重田氏は、ポランニーとフーコーを引用することで、「市場をめぐる統治」は、「市場化をすすめる統治」と「市場化に抗う統治」といった多様なバリエーションがあることを指摘する。単純な二項対立の軸に落とし込むことなく、市場と社会の関係について多様な捉え方をすること必要があると、重田氏は述べている。
4章は新自由主義と併せて論じられることが多い大学改革論に対して、批判論が展開されている。
近年の大学改革は、「市場化」や「競争」を謳い文句としていることから、改革における新自由主義的な側面を批判されることが多い。しかし重田氏は、こうした大学改革と新自由主義を結びつける論に疑義を投げかけている。重田氏は、大学改革における「市場化」や「競争」は、新自由主義的なものとは異なる性質のものであるという点を指摘し、批判論を展開する。重田氏によれば、そもそも大学は市場の論理と親和的ではなく、新自由主義がすすめる「市場化」と大学改革の実態は反しているのだという。また、「競争」についても、新自由主義が掲げる「競争」とは違い、「競争」というレトリックを用いた「擬似競争」に過ぎないのだという。
さらに重田氏は、大学改革が新自由主義的ではない理由として、大学改革の官僚主義的な性格を挙げている。大学改革は「競争」や「市場化」をレトリックとして挙げながらも、その実態は官僚主義的な「規律」を中心としたものなのだという。重田氏はその例として、「規準」や「責任不在」「人事支配」などを挙げて、大学改革の実態を明らかにしている。
5章では、現代の政治と行政の異質な関係性について論じられている。
教科書的には、政治と行政の役割は分化されている。しかしながら、今日の「忖度」をはじめとする政治と行政の関係性は、これまでの政治学・政治思想が対象としてきた政治と行政の関係とは異なる異質なものであると重田氏は分析している。
6章は、政治における「隔たり」について、移民を例に取り上げられている。
原住民と移民の間にまたがる「隔たり」は、「排他性」を付随させており、その「隔たり」を克服する連帯の実現が課題になるという。
7章では、個人の損得という視点以外から、社会保険に入らなければならない理由づけについて考察がなされている。
8章は「協同組合」に対する新自由主義の立場からの批判について、その正当性の検討がなされている。
新自由主義は、市場的であるか否かという振り分けを行い、「市場的ならざるもの」を一つの印として否定の対象とする。そのため、社会主義的・管理主義的な印象が強い「協同組合」は新自由主義からの否定の対象になる。しかし重田氏は、「協同組合」の起源を辿ることで、「協同組合」は社会主義的・管理主義的な構成のみを特徴としているわけではないことを指摘する。「協同組合」は、新自由主義の立場が想定するよりも、単純な構造ではないとしている。
9章では「排除」と「分断」、そして「連帯」の関係について論じられている。
10章は「連帯」の思想的な根拠となる「社会連帯主義」について、ロールズの理論による示唆などに触れながら論の展開がなされている。
社会保障・社会保険の思想的基盤となる「社会連帯主義」は、社会のリスクの不平等を公平に負担するべく「社会の再組織化」を図る思想なのだという。ジョン・ロールズの理論は、「社会連帯主義」を擁護する一潮流であると重田氏は指摘している。
11章では、ナウシカをもとに、「ニヒリズム」の正確な理解について述べられている。
12章は理性と「情念」の対立を前提として、政治思想が向き合うべき問題について論じられている。
ポストモダンの政治思想は、一般的には「理性」を批判することに焦点を当ててきたとされる。しかし重田氏は、「暴力」との関係性から「情念」もまた検討対象とされなければならないと主張する。アレントの『革命について』で触れられているように、「同情」や「絶対善」はテロルへと結びつく。重田氏はこの「情念」の作用を別の例に触れて説明し、政治思想が向き合うべきものとして「情念」を主張している。
一行抜粋…これもまたパスカルを読むと分かるのだが、人間の中間性という場合、その振れ幅は驚くほどに大きい。人間とは全くもって無に等しい存在である。だが、無限の彼方の神を見やり、自己の行為を合理的に選択し、倫理的かつ道徳的に生きることができる存在でもある。無思考のカオスと全知全能との中間にある人間について、彼らの共同性がどのような形でありうるのかを、絶対の正解がないとわかっていながら考え続ける。それが政治思想を研究するということなのだろう。そこにある一片の誠意や倫理性が何なのかを思いめぐらしながら。(325頁)