『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』/國分功一郎
主題…国民による選挙を通して代表者を選出し、その代表者で構成された議会が法律を制定することで、政治を行う。これを「民主主義」として私たちは認識しているが、統治の権限は行政組織が担っているという実態がある。その実態を知っていながらも、なぜ私たちは異議を申し立てることなく、今日の政治を「民主主義」として認識しているのか。その理由は近代政治哲学の議論の蓄積の中にあるのだという。
1章では本書の題材となっている「小平市都道328号線」の開通をめぐる小平市民の動きについて取り上げられている。
小平市では約50年以上前から小平市都道328号線の開通が計画されてきたという。この328号線は小平市の大規模な区画整理を必要とするものであり、開通計画に対して兼ねてから反対の声が上がっていた。
そして近年、この計画が本格的に進められるようになると、反対運動も拡大し、「住民投票条例」制定のための署名運動まで行われるようになった。國分氏はこの運動に参加し、市民の反対の声に注目を集めることで、住民投票条例の制定及び住民投票の実行へと漕ぎつけた。
しかし住民投票は首長が設置した基準を超えることができず、開票を待たずして無効となってしまった。國分氏は住民の反対運動の経緯と行政側の対応に鑑み、「民主主義」を標榜していながらも、市民は行政の決定プロセスのほとんど関与することができていないという点を指摘する。市民が運動を起こし、住民投票を実現させたとしても、行政側が有する資源と市民の運動は非対称的であるがために、行政の論理が優位に立ってしまうという実態があったという。
2章は小平市の都道開通への反対運動から伺えた住民参加のあり方や、住民運動をする上での視点などについて論じられている。
國分氏は、小平市の都道開通反対運動の動きは住民自治のあり方として肯定的に評価することができるものであると主張している。國分氏も関わっていた都道開通反対運動は、都道の開通に対して反対か賛成かという2者択一的な運動に終始せず、「市のことは市民が決めるべきではないか」という問いかけを行政側と市民全体に呼びかけるといった側面をもつ運動であったという。
また國分氏は、日本で住民参加をはじめとする「参加型民主主義」が根付かない理由についても分析している。國分氏によれば、日本国民は民主主義の価値を忘却しているということはなく、「民主主義の飢え」の状態にあるのだという。そして日本人は、その飢えに対して我慢を強いられる場面に巡り会うことが多かったことから、人々は飢えに基づいた行動を取るということよりも、飢えを我慢して他者の決定に従うという姿勢に慣れてしまったのだという。こうした姿勢が「参加民主主義」の不定着の根底にあるのだという。
3章では近代政治哲学が概念化してきた「民主主義」について、現実との乖離とその問題点について論が展開されている。
政治学・政治哲学は「統治」における権威の正当性根拠について議論をしてきた。中世の頃は、その正当性根拠として伝統や宗教に依拠していたが、近代に時が向かっていくにつれて、他の正当化根拠が求められるようになった。こうした流れの中で、ジャン・ボダンは「主権」の概念を提唱することで、権威の根拠を合理的に説明しようとしたとされている。
そして近代に入ると、この「主権」が理論的に精緻化されるようになり、「民主主義」との関連で説明されるようになる。ジャン・ボダンやジャン・ジャック・ルソーなどが「主権」を「立法権」と位置づけ、それを議会が担うとしたことで、今日の議会制民主主義の理論化を図ったのである。
こうした近代政治哲学の蓄積により、今日の「民主主義」という語には、人民が議会の構成員を選出し、その構成員らからなる議会が「立法権」を行使して「統治」を行うという前提が含まれている。そのため、人民が「立法権」行使への過程へ少しでも関与していれば、「民主主義」は成立していると認識されるということである。
こうした近代政治哲学の議論を踏まえると、小平市都道開通問題をはじめ、今日の「民主主義」における問題が浮かび上がる。それは市民、国民が行政による「統治」の過程に全く参加することができていないにも関わらず、その過程が「民主主義」として正当化されているということである。これについて國分氏は、大竹弘二氏の論考を引用して論点を明確化している。大竹氏によれば、この事態は「近代の主権概念が目指したものの危機」なのであるという。主権概念は統治の正当化を図るために生まれたが、今日の実態は統治のほとんどが主権の関わらない領域で行われているということである。
4章では民主的な統治のあり方として考えられる方向性や具体的施策について取り上げられている。
國分氏は、デヴィッド・ヒュームの論に依拠するジル・ドゥルーズの法と制度に対する視点が今後の民主主義を考える上で示唆的であると述べる。ドゥルーズによれば、法と制度の役割は根本から異なり、法は禁止を定めるものであり、制度は行為のモラルを定めるものなのだという。そしてドゥルーズは法が多く、制度が少ない政体は専制的であり、他方で法が少なく、制度が多い政体が自由で民主的なのだという。
國分氏はこの視点に基づき、日本の民主主義のあり方を検討する。國分氏は、議会制民主主義という制度を抜本的に変革するのは困難であるという前提のもとで、市民、国民が統治の過程へと参加することができる「多元的な制度」を設ける必要があることを主張する。國分氏によれば、議会制民主主義に対する「強化パーツを付け加える」という方向性が求められるのだという。
この発想のもと、國分氏は住民投票の再検討の必要性や、ファシリテーター付きワークショップ、パブリック・コメントなどの可能性について論じている。
5章では、ジャック・デリダの「来るべき民主主義」の考え方のもとで、我々が「民主主義」と向き合う上での考え方について論じられている。
一行抜粋…役所や官僚に対する批判というのはよく耳にする。だから「行政が全部決めているなんて、そんなことはわかっている」という人がいるかもしれない。しかしそういう人はよく考えていただきたい。なぜそういった批判がこれだけ世の中に広まっているのに、この社会は「民主主義」と呼ばれ続けているのか、を。問題は、役所や官僚が政治的決定を下しているという現実が十分知られているにも関わらず、この社会が民主主義と呼ばれ続けているのはなぜか、ということなのだ。(134頁)