『いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか』/内藤朝雄
主題:なぜ教室空間における「いじめ」はなくならないのか。「いじめ」の原因を語る諸言説は子ども達が形成する「学校的」秩序を見誤っている。「学校的」秩序が生み出す「いじめの構造」を正確に捉え、子ども達を苦しめている学校教育制度を見直すことで「いじめ」の解決への第一歩が開かれることになる。
1章では「いじめ」の原因をめぐる世間一般の言説の見誤りについて論じられる。
「いじめ」問題が議論の俎上にのぼるとき、子どもの未成熟さ、脱社会性などといった要因を挙げて評する言説が見られる。しかしそれらは「いじめ」に加担する子ども達の成熟した感性や巧みなコミュニケーション能力を「いじめ」の要因とする他の言説と矛盾をきたすことになる。
これらの矛盾を起こす諸言説は子ども達が形成する教室空間を「単数的」なものと捉えているため、アポリアに陥るという。
内藤氏は子ども達が形成する教室空間は「単数的」なものでは決してなく「生態学的」「流動的」なものとして捉えるべきであるとしている。
閉鎖的な教室空間において子ども達は「ノリ」に準拠する形で独特な秩序を形成する。そうして形成された「学校的」秩序の内部では、何が「善」で何が「悪」かといった価値基準はすべて「ノリ」や「雰囲気」によって判断されることになるという。
「学校的」秩序の内部で生きる子ども達は、自らの生命感覚・行動などは秩序の「ノリ」に基づいて獲得するため、「ノリ」の方向性次第で過激な「いじめ」さえも容易に正当化されるということである。
このダイナミックな構造を知ることで、まっとうな「いじめ」の議論を行うことができるのである。
2章は秩序が「いじめ」を発生させる具体的なメカニズムについて論じられる。
「いじめ」に人を駆り立たせる出発点は各人が抱える「不全感」にあるという。物言えぬ不安感や焦燥感、欠力感などが潜在的に蓄積することが「いじめ」の下地の形成につながることとなる。
「不全感」を抱えた個人はその「不全感」を開放する必要性に駆られる。人は「不全感」を開放する際に、不安感や焦燥感を消失させて自らは全能であるという感覚を覚えるための「全能筋書」というものを見出そうとする。「全能筋書」とは自らに欠落する要素を実現するための具体的な方式・形式であると考えればよいだろう。
その「全能筋書」の内容に合わせる形で人々は自らの行動選択を行い「全能感」を達成させようとする。「全能感」を達成するためには、自らの欠落感を補填するものを他者の身体・姿に攻撃的に押し付けることが必要になる。「いじめ」の場面では「全能感」を達成するために、暴力的な形で他者の存在が用いられるということである。
3章では「投影同一化」というクラインの概念を基に「いじめ」の連鎖を考察する。
「投影同一化」とは自らが抱える「自己統制の欲求」が他者に対する行動として反映されることを指す。かつて他者から抑圧・攻撃された経験がある場合、その人はその被抑圧経験を他者に対して反射的に表出し、自らに抑圧された部分を実現しようとするという。
この「投影同一化」が「いじめ」の連鎖の場面で働くことになるという。
「いじめ」が連鎖する背景には、被「いじめ」経験者の中に経験された「タフ」さがあると内藤氏は指摘する。一度いじめを経験すると、被「いじめ」者はそのいじめに耐えるための「タフ」さが形成される。そのいじめが経時的になされることで、その「タフ」さはいじめを切り抜けるための「タフ」さへと鍛え上げられ、その過程で世間はそういうものだという諦念の感覚さえも身に付けるという。
その諦念の感覚が広く共有され、一般化することで「いじめ」が連鎖する土壌が形成されるということである。
4章は「いじめ」の構造の中に「利害計算」が含まれていることを指摘する。
内藤氏は「学校的」秩序の下で、小集団の「ノリ」に合わせて価値基準が再生産され、その「ノリ」に外れた者を攻撃対象とすることを「<祝祭>」と名付ける。
その「<祝祭>」の中では巧妙な「利害計算」がなされており、独自の政治空間が形成されているという。そしてその「利害計算」を可能にしているのが学校教育の諸制度であるとして、5章以降へと議論を展開する。
5章は現行の学校制度と「いじめ」の構造について論じられる。
現行の学校制度は「集団的」「閉鎖的」な教室空間が形成されるようになっているということを内藤氏は強く主張する。
閉鎖的であり特定の他者としかコミュニケーションをとれない今日の教室空間は、生徒たちの関係を強制的に「ベタベタ」とさせざるを得ない。そうした空間での関係性は、すべてが「つながり」「絆」といった言説で終始してしまうような力学を孕んでいる。
「集団的」「閉鎖的」な教室空間を形成する学校制度こそが、「学校的」秩序が成立して「いじめ」へと決着する構造をなしているということである。
6章は現行の学校制度に代わる制度設計について提唱がなされている。
7章は悪しき全体主義の動きと類似する傾向があるとして、日本社会の「中間集団全体主義」について論じられている。
歴史上の全体主義の経験は遠い過去の話ではなく、日本社会でも全体主義的な「中間集団全体主義」という動きがその片鱗を顕わにしているという。
一行抜粋:学校で生徒も教員も「学校らしく」生きているだけのことだ。この人道に反する「学校らしさ」が問題なのである。