『ストーリーメーカー 創作のための物語論』/大塚英志

主題…「物語」は「構造」において成り立つとされる。そのため、その「構造」に忠実に則ることで自動的に「物語」は生成されるということになる。本書では「物語」の「構造」をめぐる議論を踏まえ、自由な創作のための「物語」の生成過程を追体験する。

1章では物語の基本的な文法の1つである「行って帰る」というパターンについて説明がなされている。
大塚氏によれば、物語の基本文法として、主人公がこちら側から「境界線」の向こう側へと「行って帰る」パターンが主なものとして挙げられるという。この「行って帰る」という物語の文法は、主人公がこちら側という「日常」と向こう側という「非日常」の「境界線」を見つけるところから物語は始まるという。そして主人公はこの「境界線」を越え、向こう側としての「非日常」で未知・不安などの経験をし、そしてこちら側としての「日常」に再び帰ってくるとされている。
この「行って帰る」という物語の文法においては、越境という経験を通した主人公の変化に焦点が当てられると大塚氏は指摘している。そしてその変化とは「子どもから大人になる」というものが一般的とされている。この文法では、主人公が「境界線」の向こう側の「非日常」を経験することで、何か気づきを得て、「日常」へ帰ってくることで、読み手は「子どもから大人へ」という変化を感じ取ることができるのだという。

2章ではウラジーミル・プロップが『昔話の形態学』で展開したとされる、民話の最小単位の分析について取り上げられている。
ウラジーミル・プロップは、民話には「最小単位」があり、その「最小単位」の組み合わせによって民話の意味が形成されるとした。そしてプロップはこの「最小単位」を「構造」と名付け、物語は31の「機能」の組み合わせによって成り立つということを結論づけたという。
大塚氏はこの31の「機能」を紹介した上で、実際の物語がどのようにこの「機能」の規則的な組み合わせで成り立つのか、事例をもとに解説を加えている。

3章は中上健次の作品における「構造」の存在と未完作品の分析がなされている。
大塚氏は中上健次の晩年の作品である『南回帰船』には、物語の構造を意識した手法が取り入れられていると主張する。大塚氏によれば、『南回帰船』には貴種の誕生や母親との関係など、物語的な要素が取り入れられていることから、中上氏は「構造」を意識していた可能性は高いのだという。

4章ではジョセフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で論じた物語の構造について取り上げられている。
ジョセフ・キャンベルは、「英雄神話」における構造を心理学的に分析することで、「英雄神話」のプロセスは主人公の「自己実現のプロセス」に対応しているという構造を確認したとされる。大塚氏はこのキャンベルが見出した「構造」をもとに、中上健次の『南回帰船』の分析を展開している。

5章ではクリストファー・ボグラーが、キャンベルの「ヒーローズ・ジャーニー」をハリウッド映画に転用した論について取り上げられている。
大塚氏はこのボグラーによる「ヒーローズ・ジャーニー」の定式化をもとに、『バイオハザード』の構造を分析している。大塚氏によれば『バイオハザード』のみならず、近年のハリウッド作品のほとんどは、この構造に忠実に当てはまるものなのだという。

第2部の1章と2章では、ここまでで確認してきた「物語の構造」を踏まえ、自らの経験や想像に即した「物語」の創作について説明されている。ここでは人工的に「物語」が創出される過程を追体験する形で進められている。

補講では柳田國男の『世間話の研究』をもとに、現代の「物語」をめぐる問題について論が展開されている。
柳田國男は、「物語」における虚構と事実の線引きがなされることに批判的であったとされる。そしてさらに、虚構と事実の線引きがなされた上で、虚構としての「物語」が批判される傾向にあることを問題視していたという。
大塚氏は、柳田國男のこのような「物語」への意識に加え、柳田が『世間話の研究』で行った「物語」と「ハナシ」の関係についての議論を今日でもリアリティのある議論として受け止めている。柳田は『世間話の研究』にて、社会や歴史を構築する「ハナシ」と「物語」を区別し、公共性を担うはずの「ハナシ」の未熟さを指摘した。そして世間の雑多な情報の集合に過ぎない「物語」が「ハナシ」へと距離を縮めてきているということを柳田は危惧していたという。
こうした柳田國男の時代診断を大塚氏も共有しており、大塚氏はとりわけ現代のネット上でのコミュニケーションはその最たる例であると主張している。公共性を構築する「ハナシ」が放棄され、雑多な情報だけが拡散する「物語」の蔓延が今日の社会では見受けられるのだという。

一行抜粋…1931年に書かれたこの柳田の小文が指摘した問題、つまりこの国の現在において「無闇に内証話ばかり発達」し、これを「正しい歴史にしていく機関」が不成立だという問題は重要だ。掲示板、ブログ、ミクシィ、フェイスブック、ツイッター、ラインと、web上のコミュニケーションツールの流行がめまぐるしく変わっても、「人の弱みや後ろ暗いこと」についての「内証話」のために「無闇に」「発達」していっているに過ぎず、「ハナシ」を介して人が一つの「歴史」を作っていく枠組みがweb上には結局、出来上がっていない、とぼくには思える。つまり、柳田の現状認識が今も全く有効なのである。(273ー274頁)

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