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【自然の郷ものがたり#12】アイヌ文化は共有財産 伝統を守りつなぎ新たな表現へ【聞き書き】

道東を代表する観光地のひとつ、阿寒湖温泉。雄阿寒岳と雌阿寒岳に囲まれ、特別天然記念物マリモの群生地、そしてアイヌ文化が色濃く感じられる地として、訪れる人々を魅了し続けています。

阿寒湖アイヌコタンは、前田一歩園財団の3代目園主・前田光子氏がアイヌの暮らしを守るため、土地を無償で提供したことから始まり、全道各地から集まったアイヌが独特に文化を進化させてきました。そこで生まれ育ち、伝統を踏まえながらクリエイターとして常に新しい表現を模索してきた秋辺デボさんに、<触れ合う・つくる・食べる・受け継ぐ・解き放つ・自然と生きる>の6つの感覚を大切に生きてきた阿寒湖地域の人々の足跡と、秋辺さんの思うコタンの未来について伺いました。

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秋辺デボ(あきべ・でぼ)
1960年、阿寒湖温泉でアイヌの両親のもとに生まれる。本名・秋辺日出男。阿寒アイヌ工芸協同組合専務理事。父の民芸品店を継ぎ「デボの店」として経営。阿寒湖のユーカラ劇の脚本・演出、アイヌシアター〈イコㇿ〉のプロデュース、音楽活動、映画「アイヌモシリ」(2020年/福永壮志監督)出演、2020東京五輪札幌会場オープニングのアイヌ舞踊演出(2021年)等、多岐にわたる活動でアイヌ文化の普及に努めている。

※この記事はドット道東が制作した環境省で発行する書籍「自然の郷ものがたり 2」に集録されている記事をWEB用に転載しているものです。

マリモにカムイへの祈りを込めて

俺にとって阿寒湖は昔からの遊び場さ。この地域の人間は環境保全のバロメーターとして、特別天然記念物のマリモを観光の看板に据えているわけだ。
そうして、住民は観光客に「私たちはマリモを守るため、自然に配慮した生活を心がけています。お客様もご協力ください」と呼びかけてきた。

かつて天然マリモは、盗まれたり、よそで販売されたり、水力発電のため阿寒湖の水位が下がったことで激減したりと、絶滅の危機にあったんだ。
その後、マリモを守りたい思いで「人間の都合で湖水を放水するのはやめてくれ」と陳情したり、1950年から「まりも祭り」が始まった。全国に販売されて散らばったマリモの返還を呼びかけて、阿寒湖に戻したんだよ。国内では自然保護運動の先駆けになるんじゃないかな。
1回目に20個くらい返ってきて、だんだん認知度が上がって、4、5年目は300個ほどにもなった。

ちなみに、マリモというのはアイヌ民族にとってはカムイ(神様)ではないんだよね。食べられないし、せいぜい乾燥させて針刺しとして裁縫道具に使うくらい。
でもアイヌってね「人間の役に立たないもの、イコール不要のもの」とは判断しない。なにかしら理由があって存在しているはずだから、粗末にしちゃいけない。それは虫でもネズミでも、何に対してもそう。人間の都合だけで考えないんだ。

マリモはカムイではないけれど、天然記念物であり大切な観光資源でもあるから「まりも祭り」では、阿寒湖と、その周囲の神々に感謝するお祈りをしようということで、カムイノミ(神に祈りを捧げる儀式)をしている。
マリモは、風で程よく波が起きて水中でコロコロ転がるとか、栄養分を含んだ温泉があるとか、条件が揃ってないと成長しないそうだ。阿寒湖はそんな貴重な場所。「普段忘れていても1年に1回くらい感謝するのは大事だべ」と、よくアイヌコタンの先輩たちも言っていた。そのへんの枝一本にしたって、余計なことして傷つけたりしたら怒られたもんさ。

見て触れて、自然を学べる国立公園に

丸木舟とか大作を作るために木を切った後は、苗木を植えるようにしている。150年後には大きくおがって(育って)また木彫りの素材として使えるようになっていたらいいよな。ヤナギなんて、繁殖力が強くていくらでも生えてくるから重宝している。
間伐材も使ったりね、阿寒はうまくやってるよ。まさに「自然があるから人間が生きていける」ということが、よくわかる地域なのさ。だから、お客さんには自然や温泉を楽しんで、知的好奇心も満たして、最後に「少し利口になった」と感じて帰ってもらいたい。そういう意味で、阿寒湖は賑やかでありたい。

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北海道の自然は特に「見て、触れて、何か感じて」と伝えることが大事だし、それが国立公園の役割だと思う。
阿寒湖の人間は、ずっとそう言い続けていたの。アイヌの考え方でいえば、人間が介在して初めて自然の価値が理解される。人間同士が自然を分かち合う関係性を築いていかなければね。もちろん、踏み入ってはいけない領域もあるから、ちゃんとセパレートして考えなくちゃならないけれど。

阿寒湖、屈斜路湖、摩周湖、硫黄山……各地域の役割をどう振り分けるのかは、周辺の住民たちのオリジナルな感性でやっていくのが一番いい。阿寒摩周国立公園として画一的に考えるより、各地域のやり方を組み合わせたほうがきっといい公園になる。
住民が自ら考えた案をサポートするのが行政の役割。だって、環境省ができる前から阿寒には湖があり、マリモがあり、森があり……その自然を破壊せず、敬って暮らしてきたのがアイヌなんだから。後から作られたルールで解決できないことはたくさんある。

環境省の「阿寒湖温泉らしい景観づくりガイドライン」(2011年策定)は、自分たち地域住民も連携した景観整備プロジェクトだから、もう完璧ですよ。
当時、よくここまでアイヌ文化を取り入れて管理計画を作ってくれたなあ、とびっくりした。行政というのは、ルールを作って住民を縛るのが仕事だと思っていたんだけど、それだけではないんだなあと。

「あれしちゃダメ、これしちゃダメ」ではなくて、阿寒湖地域の管理計画では、アイヌ文化や自然を大切にする方向性でなにができるか、住民自ら考えて実行してほしいという文脈が流れている。今までになかったことだよね。
管理というより、「いいことはどんどんやりましょう」という発展的な計画は、ここにふさわしいやり方だと思うよ。

人に寄り添い考える未来

6歳ごろ、親父に連れられて日本一周の旅をしたことがあった。全国各地のデパートで親父が木彫りの実演販売をして、当時は珍しかったと思うよ。いわゆる北海道物産展のルーツじゃないかな。
そういうふうに、いろいろな地方でたくさんの人に出会った経験の影響は大きかったね。

親父はいつも、新しい木彫りを発明したいと言っていた。
俺も他人と同じことをするのが嫌だったし、ファッションも「流行を追うより、自分に似合っているかどうかが大切だろ」なんて言って、学生時代は女の子から「面倒臭い男ね」ってよく言われたもんだよ(笑)。

でも、40歳を過ぎてから、人を救わない正論や、人に優しくない理屈には意味がないって気がついた。
人を言い負かして勝ち誇るのに疲れていたころ、たまたま読んだ心理学の本に「高齢化と過疎化が進む町には、どんな対策がベストか」という問いがでてきた。
一つは、高齢者が暮らしやすくなる施設をつくる……もう一つは若い人を町に呼び込んで住んでもらう……さあどっちでしょうって。
正論だったら、前者だよな。正解は逆だった。どんなに充実した施設でも、高齢者だけで暮らしていると寂しいんだ。子どもや孫にも会いたい、若い人とも交流したいという気持ちに寄り添った正論を考えるべきだ、という答えを読んだときに、頭をガーンと打たれたような衝撃があった。

今も阿寒湖温泉では町中を宣伝カーが走り回って、民芸品店が「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ」って元気に呼びかけている。昔ながらの観光温泉地として頑張っているのは、道内ではここを含めてわずかだよね。阿寒湖周辺には50軒以上も民芸品店があって、そのうち20軒がアイヌコタン。過疎化の中、みんな生活していくためには一生懸命だ。

コタンではまず、跡取りがいない店が10軒以上あるから、現在の店主の代で閉めるか、後継者を探してくるかの二択。
試験的にチャレンジショップにして、希望者と期間限定で契約して、うまくいきそうなら正式に引き継いでもらうのもいいと思う。コタンに入植してもらう感じ。そういうことを阿寒アイヌ工芸協同組合が支援していきたいよね。これまでも似た事例はあって、空き店舗が増えないよう、ずっと対策を講じてきたのさ。

例えばファサード、つまり正面玄関側をリフォームする場合は、アイヌのデザインを取り入れることを条件に、組合が予算の半額を支援する取り組みもあった。俺の店も含めて3、4軒直せた。きれいになった店を人に貸したという例もある。
いつでも新しい人が入れるような仕組みづくりを模索して、商店街活性化につなげていかないとね。結構いろいろ企んでいるんだよ。

テレビや漫画の影響からアイヌ文化を知ってアイヌコタンに来てくれる人は増えたよね。特に、映画「アイヌモシリ」出演以降は、コタン以外でも知らない人に声を掛けられるようになった。妙な気分だね。1980年代は「私はアイヌの差別問題を理解している。あなたたちを助けたい」と言う人たちが多く来た。悪いことではないけれど、複雑な気持ちだったよ。

最初から差別問題ありきでしか対話できないというのは、例えば、環境問題が起こらなければ自然について考えないということと一緒だろう。問題があろうがなかろうが自然環境も人間も大事にするべきなんだから、その感覚が欠如している人とは付き合えない。アイヌは北海道の開拓以前、今より自然が豊かな時代から、それらを壊さないルールや文化をもっていたんだから。わかってほしいね。

伝統は簡単には壊れない

あのね、人間の営みってハイブリッドなんだよ。アイヌ文化も、色んな文化と混ざってできあがった末のオリジナル性なの。ガラパゴスじゃあるまいし、隔離された中で文化が育つわけがない。それを理解せず「今じゃもうアイヌはいない。伝統的な暮らしをしていないから、民族性が失われている」と主張する人もいるけれど、そういう価値観ではないよ。阿寒湖温泉のストリートのショーケースにはアイヌの手工芸品もあれば、それ以外の人たちの作品も展示されている。アイヌ以外の文化もここに生きていて、混じり合っているという証なの。

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もともとアイヌには、伝統という概念はなかった。だって、文化というものは長い歳月をかけて伝統になるわけだよな。例えば、地域で受け継がれてきた踊りは、急激に変わるわけもないから、自然と「伝統」として認識される。ところが戦後、海外から文化が入ってくると恐怖感を抱くよね。自分たちの「伝統」が壊されるのを阻止しよう、守ろう、という考えになる。それが古式とか古典という言い方になって「変えちゃいけない」という意識が強くなったのね。

そんな伝統的なアイヌの踊りに、いきなりマイケル・ジャクソンの曲を取り入れる人はいないだろうけど、意識せずとも自然に変わってきちゃうのが、西洋文化の影響を受けて生きている現代人なんだ。本人たちは伝統に忠実に踊っているつもりでも、どうしても変わってきてしまう。それは仕方がないことなんだよ。

伝統を受け継ぎつつ、時代ごとに新しい表現の舞台にも挑戦したいよね。だから俺は両方やるよ。新しい表現をしたからといって、古典的、伝統的な舞台が二度とできなくなるわけではない。逆に、素晴らしさに気付くきっかけにもなるから、古典と新作を行き来するのはまったく構わないと思う。伝統はそう簡単には壊れないものだよ。全然大丈夫。アイヌ文化だけではなく、歌舞伎だってそうでしょう。

2020年にリニューアルした「オンネチセ」(阿寒湖アイヌコタンにあるアイヌ文化伝承創造館。デボさんがディレクションを務めた)では特に、木彫りや刺繍など、手工芸品の新しい魅力を紹介するとともに、その背景にある古典的な作品や資料も展示している。その両方が阿寒湖アイヌコタンという、ひとつの地域だけで揃っちゃったところが、ちょっと自慢だね。新旧が融合した表現さ。各作家がアイヌの伝統の枠から飛び出して、現在進行形で世界に訴えかける作品をコタンでつくっている。これからも楽しみだよ。

提供:阿寒アイヌ工芸協同組合

一方、「カムイルミナ」や「ロストカムイ」では、プロジェクションマッピングやデジタルアートといった最先端の技術を取り入れつつ、一貫して伝統が表現の柱になっている。どんなに新しい技術でも、いずれありふれたものになるのだったら、何を表現したいのか、己の哲学に基づいた演出が大切になってくる。そして、人から共感してもらえるか否かにポイントを置くこと。「アイヌだからこれでいいんだ」では、独りよがりでしょう。

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提供:阿寒アイヌ工芸協同組合
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提供:阿寒アイヌ工芸協同組合

新しい表現を取り入れても、それに支配されないことが大事。どんな技術を駆使しても、そのソフトやコンテンツを作っているのは結局人間だから、彼らと人間らしい付き合いができているのか、融合できているのかどうかは舞台に表れるよね。

アイヌ文化は共有財産

カムイルミナ」と「ロストカムイ」をやる段取り決まったのが、俺が東京五輪の仕事を引き受けたタイミングだったから、床州生(とこ・しゅうせい)君(阿寒アイヌ工芸協同組合理事、阿寒アイヌ協会副会長。父の木彫り作家・床ヌプリの店を引き継ぎ経営)に「ロストカムイ」の舞台監督を任せる流れになった。阿寒湖は昔からそうなの。無理やり役割を与えられるの。特に踊りは、まず先輩から突然「踊れ!」って言われる。理屈をこねたって仕方ないでしょ。アイヌの教えは、生きていくためのスキルだからね。

映画「アイヌモシリ」でも、俺が主人公にアイヌ文化を伝えるシーンがあるのは、そんな話を監督にいっぱいしていたから。若い人を導くためには、本人が納得してからじゃ遅いんだよね。スポーツ選手だってそうだろう。才能を見抜いたときは、特にそう。

理想のリーダー像?……わがままで、押しが効いて、引き際がいい人。「立場が人を育てる」という言葉があるけれど、俺もそうやって育てられてきた。まあ、死んだら死んだで、ちゃんと代わりがでてくるもんだ。阿寒湖アイヌコタンは、共同体だから。

人間が自分の地域の文化を理解する瞬間って、他と比較したときなんだよね。例えばアイヌ文化と日本文化、西洋と東洋。自分の立ち位置がわからなければ、他の地域の価値もわからない。

「ロストカムイ」は「このアイヌの考え方を、あなたはどう感じますか」という提案型の舞台なんだ。見た人に、自ら思考してみてほしいという思いがある。舞台に限らず、料理や、手工芸品もそうだな。説明しすぎないことは、けっこう大事なんだよ。

人材育成に関して、阿寒湖はうまくいっている方だと思う。コタンのアイヌシアター〈イコㇿ〉では、アイヌ以外の人も踊り手になっているしね。「踊りたいんだけどいい?」「おお、来い来い」みたいな感じさ。他の地域では文句を言う人もいるみたいだけど、つまんないねえ。俺は大ざっぱだから、アイヌ文化は皆の共有財産だと思っている。ただ、主体的に伝統を保持する責任を伴うのはアイヌ自身だよ。一緒に踊っているアイヌ以外の人には、なんの責任もない。

俺が思うにアイヌというのは、アイヌの血をルーツにもち、その自覚がある人。そして、アイヌの血をルーツにもたずとも、子どものときからアイヌに育てられた人も。とはいえ、縁もゆかりもない人が誰でも「俺はアイヌだ」と言うわけにはいかないよな。民族の定義は天の理ではなく、人間が考えて決めるもの。人間が知恵や歴史、文化を考え合わせて、定義が決まるものだと思っている。地球の自転や月の公転とはまったくわけが違う。

つい50年ほど前まではそんなこと考えなくても、民族って自然に分かれていたのさ。アイヌもだいたい血で区別できたし、厳密に定義を考える必要もなかったの。今は、新たな論理で考え直さなければ、再定義できないと思う。人間社会のことだから、人間が決めていいんですよ。もしくは、まったく決めなくてもいい。ジェンダー問題と同様、自分がどう選択するかが大事だよね。決めるのは、いつでも自分たちだよ。

取材・執筆:中山よしこ
撮影:中西拓郎


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