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【自然の郷ものがたり#13】受け継がれる「一歩園精神」、阿寒「復元の森」づくりへの挑戦【聞き書き】

阿寒にはかつて、この美しい自然を愛し、人々の幸せな暮らしを願った1人の女性がいました。

「阿寒のハポ(アイヌ語で母) 」とも呼ばれた前田光子さんは、義父である前田正名さん、そして夫の前田正次さんの遺志を継ぎ「阿寒の自然を後世に残し続ける」という悲願を叶えるため、前田一歩園の財団化に尽力しました。その影には前田家の思いを具現化してきた人々の努力がありました。

阿寒湖を取り囲む3600haもの森林を「人の手が入る前の原生林」の状態に戻す「復元の森づくり」もその1つ。今回は前田一歩園の職員として新妻栄偉さんの下で、一歩園の森づくりの方針に沿って森林を管理し、約半世紀の間、阿寒の森を見つめ続けてきた西田力博さんに、光子さんとの思い出や、当時の様子、そして阿寒の未来について伺いました。

西田 力博(にしだ・りきひろ)
一歩園の山頭を務めた西田初太郎さんの長男として1950年に生まれる。幼少より前田光子さんに可愛がられ、阿寒の森を遊び場にして成長する。一歩園に就職後は、自然環境を重視した森づくりを学ぶため、道庁での研修や様々な研究者への訪問、森づくりの現場にも出向き、日本で初めての「復元の森づくり」を行う中心人物の1人となる。一歩園の財団化にも尽力し、47年間の勤務を経て2017年に退職。現在は阿寒や釧路地域周辺の自然ボランティアとして活動。

※この記事はドット道東が制作、環境省で発行する書籍「#自然の郷ものがたり」に集録されている記事をWEB用に転載しているものです。

みんなで生きていけるように、みんなが幸せになるように

私が生まれた頃は、ここは大体50世帯300人くらいの人口だと思ったんです。旅館が何件かある程度、道路も舗装じゃない時代です。父はもともと、阿寒湖の漁師で、今の漁業共同組合に所属してたんです。冬場は、漁師ができないので、光子さんの旦那さんに雇われて、山のお手伝いに行ってました。だから、小さい頃の私にとって、山は遊び場でしたね。作業場や飯場に遊びに行ったり、魚釣りしたり、山菜採りしたり、ハンターの熊撃ちについて行ったりといろいろしました。
 
旦那様の正次さんと光子さんは、はじめは阿寒を別荘のように使っていたのですが、私が生まれる前に移住しました。でも、旦那様は体が丈夫ではなかったので、その後も東京と阿寒を行ったり来たりしていたと聞いています。私が小さい頃は、前田家のご自宅によく遊びに行っていました。旦那様からはアイスのスティックを、光子さんからはお菓子とか飴玉とかをもらえるのが楽しみでした。お二人は子どもがいなかったからめんこがってくれたんですね。

光子さんの写真 提供:一般財団法人一歩園財団

1957年に旦那様が亡くなられて、光子さんが3代目の一歩園園主になりました。優しい人でしたが、風格というか、キッとしたところがあって近寄れないようなところもありました。僕らがいたずらしたり、悪いことしたりしたら怒られるなという怖さがあってね。例えば、畑に行って、すももをとったりしたら「ちゃんと言ってからにしなさい」とかね。この財団の敷地の中にも、すももがありますけど、時期が来ると光子さんのことを思い出しながら、幼稚園の子どもたちに拾わせています。

当時、町の大人たちにとって、光子さんっていうのはやっぱり特別でした。阿寒の殿様というか。でも、町の子どもが病気になったら、心配して手を合わせて治るようにお願いしたり、地元の人に対しても、お悔やみ事があったりしたら、先祖のところに行って手を合わせるとか、光子さんにはそういう信心深い優しさがありましたね。町の人のことを家族のように思っていたというかね。

そうそう、アイヌの人たちともそういう接し方でしたよ。当時アイヌの人たちは木の彫り師をしていて商店街に点在していたんだけど、「自分の家に住んで働いて食えるように」と光子さんが今のアイヌコタンの土地を提供して、アイヌの人たちを集めていったんだよね。コタンで責任者を5人決めて、何かあればみんなで決めて、それを光子さんに伝えるという仕組みにしていました。みんなで生きていけるように、いろんな知識をお互いに共有しましょうという感じ。「みんなが幸せになるように」って光子さんは考えていました。

前例が無い「自然を重視した森づくり」

私は、父が一歩園の山頭だったので、生まれた時から前田家の山を管理することが決められていました。自分の将来が見えてしまっていて、阿寒のことが嫌いだった時期もあります。林業絡みの勉強をしなさいと美幌高校の林業科に進んだんですけど、「北海道にいたくない」と思って、卒業後は名古屋の企業に就職しました。でも会社に入って半年くらいで工場長に呼び出されて、親が調子悪いっていうことで、1970年に阿寒に戻ってきました。

戻ってきて思ったことは、「山に入ると、ちょっと物足りないな」ということでしたね。あの魚が釣れないなとか、沢に行くとこんなにいいフキがあったのがないなとか、太い木があったのになくなっているなとか。一歩園も前田正名さんの時代から木を伐って従業員の給料を出していましたし、その時代その時代の考えで先輩方も伐採をしてきたわけですので、それについてはどうとか言えないですよ。でも、「子どもか老人の木しかいないな」とは思いました。

一歩園に入って、はじめは事務所勤めでした。現場に行きたかったから辛かったですね。その後、山の担当になって自由にあちこちいけるようになりましたから、楽しかったです。一歩園の山に何があるのか、弁当持って3600ヘクタールをとにかく歩きました。でも半年たったら「北海道庁で研修してこい」と言われて、2年半くらい林務課や環境の部署を行ったり来たりしました。上司に聞いたら、一歩園を財団にするための勉強をしてこいということだったんです。

高校や会社で覚えてきたこととはまったく異なる森づくりをする必要がありました。普通の人工造林なら、植えたら30年後に伐採して、っていう「生産性の高い森づくり」の方法があるんだけど、「自然環境を重視した森づくり」はほとんど前例がない。だから、いろんな書物を読んだり、先生を訪ねたりしました。例えば、富良野に演習林をもっていて、天然林に関しては日本一という東京大学の高橋延清先生のところへ行ったり、水が出るための森林に戻す技術をもっていた北海道大学の東三郎先生に「山で一番早くに生長するのはヤナギの木だ。砂利でも川のふちでも育つ」と教えていただいたりね。

他にも北海道中、公共林から自然林までどこでも行って見学をさしてもらったりして、ゼロから勉強をしていきました。多少木の名前は知ってるけど、自然林をどう作るかなんてわからないからね。でも、いい仲間といい先生に恵まれました。学力も知識もなかったけど、学んでここに還元できればという思いになりました。

西田さんがはじめて植林したエリアから見える阿寒の風景

木を伐りながら、森を300年前の姿に戻す

前田一歩園では、これまでの調査や、専門家との議論から「復元の森」というコンセプトを立てて、300年前の森に戻すための取り組みをしてきました。ちょうど町も旅館からホテルに変わって観光が伸びてきた時代です。「自然でものが食えるか」っていう人もいれば「自然は大事だ」っていう人もいて、そういう板挟みにはあいましたね。

正直、300年前の森の姿は誰にもわかりませんから、そこから考えて、財団の方針として「針葉樹と広葉樹が70対30くらいの混合林型」にもっていくことにしました。阿寒は針葉樹の森のイメージがあるけど、実は広葉樹があると、葉が落ちるから、よい腐植土ができて土も良くなるんですよ。

多様性ってすごく大事で、一種類の木しか生えていないと、風で倒れやすかったりとか、病気が発生しちゃったらもう、根こそぎ枯れちゃいますからね。あともう一つは木を伐って商売していかんといけないので、一種類の木だけの山にしちゃうと、その種類の木が売れなくなったら困りますから。小規模だけどいろんな樹種があって必要なものを提供できる、そういう経営方針に変えてきました。

山の仕事は、春にはまず植樹祭、そして夏は保育事業(木を成長させるために下草を刈る)、秋、冬は除間伐(たくさん生えすぎた木の一部を刈ること)をしていきます。山は伐りながら、育てていくものなんです。

9月から11月にかけては現況調査をして次年度の計画を立てるんですが、その調査には素人の人を連れて行くようにしていました。ガイドをやっている人とか、女性とか。そうすると目線が違うんですよ。「この木はなんで伐るの?」とか言われるんです。「ああこういう考え方もあるのか」ってとても参考になります。「伐る山から観る山へ」って、まあいろんな考え方がありますよね。だから1本の木を伐るにも、近くから、遠くから、違う目線からと三方から見ることが大事なんですね。

こういう仕事を50年近くやってきましたが、300年前の森の姿にどのくらい近づいたっていうと、3分の1にもなってないんじゃないかな。木をつくるのはとにかく時間がかかるんですね。直径30センチくらいの一般材にしようとするなら、トドマツでしたら90年くらいで20センチですから。もうちょっと太いのだったら何百年後になるんですから。ちょうどこの場所は1972年かな、前田一歩園に就職して2年後、私がはじめて植林した場所ですよ。当時は全面が笹地でした。ほら、まずまだこんなもんですよ。

「保護」ではなく「お手伝い」

「財団化によって阿寒の美しい自然を後世に残したい」というのは光子さんの悲願でした。個人が相続することで、そのうち阿寒の森を伐り売りすることになる可能性もあったんですよ。「そうなったら、阿寒はめちゃくちゃ、私がこの自然を残さないで、お義父様や旦那様に『ちゃんと残してきた』と言えない。三途の河渡れない」っていうのが口癖だったんです。そういう意思があったんで、僕らは意地でも絶対守ろうと思いました。

実は財団になるための一度目の申請は、林野庁で認可されなかったんです。でもちょうどナショナル・トラストの時代になって、1983年に環境省で認可されました。当時、光子さんのご体調も悪かったので、万が一に備えて、私はここの事務所に泊まり込んでいました。何かあったら、正装してきれいにして出迎えるというのが私の使命でしたから。財団として認可された17日後に、光子さんは亡くなられました。

光子さんとは、20年近く一緒に仕事をしてきました。「責任ないことはしたら絶対駄目ですよ」って、それはもう、よく言われていましたね。いろんなことでも責任もってやりなさいということさ。

例えば、木を伐るにしても、伐りすぎるってのはよくないですよ。人で例えると傷が深い、手術しなきゃならんくなるでしょ。手術しないでサビオ(絆創膏)で治る程度のことをする。台風で木が倒れたからって自然に回復する力をもっているんですから。それに「いつもクリーンでいなさい」ということも言われていました。やましいことしたら駄目だよと。自然を重視する森づくりをするっていったら、やっぱりいろんなこと言われることも多かったです。

理解していただくのには時間かかります。だから女房と二人で袋もってゴミ拾いしましたもん。言っていることとやっていることが違うんでないかと言われる場合もありますから、ねえ。光子さんがクリーンでいなさいというのもそこなのよ。「やってもいないのに、口だけ、責任ないやりかたはするんでないよ。責任あることをしなさい」ということ。

だから、私がやってきたことっていうのもやっぱり、自然を「保護」するではなくて「お手伝い」ですね。保護って誰もできないからね。お天気も変えられないし、人間の都合のいいようにコントロールできないでしょう。保護なんて言ったら光子さんに「あんたそんな偉いのかい」とそう言われますよ。保護じゃなくて、環境に対して自分が何かできるかという話ですよ。だから自然に対してのお手伝いをするというのが一歩園精神です。それはいつまでも守っていきたい。

人づくりを通して阿寒の自然を後世に残す

阿寒の魅力っていったら、やっぱりこの自然だろうね。「この自然を残してくれてありがとう」って言われたらやっぱり嬉しいですよ。山があって、川があって、湖があって、森林があるっていうのは一番理想ですよね。そして、その中にいろんな昆虫から、爬虫類から、野鳥から、動物がいるっちゅうのを、次の世代の一人ひとりが感じて、大事にしてほしいと思っています。

小学生が植樹した苗

自然を大事にする人が育ってほしいですよ。だから、ガイドの子たちと一緒に山歩きして勉強会もするし、毎年行う植樹祭では、小学生に町から歩いて山まで来てもらって木を植えています。植えた木のそばに「頑張ってね」とか書いた札を立ててね。その後、毎年見に来ますよ。もちろん木が枯れることもあるけど、それも含めて自然だから。でも植えた子が可哀想だから、植え直したりもしますけどね。

他にも、地元で若い人たちが結婚してその奥さんが他の地域から来た人だったら、山に連れて行ってあげたり、あとは新任の先生が来たら、こんなに阿寒湖の自然はいいんだよ、こういう魚がいるんだよ、というのを教えたりね。その子どもたちが、一歩園財団や環境省に入るか、逆に旅館業になるか、お土産屋さんになるかはわかんないですよ。でもそれを覚えておくことで阿寒の未来は違ってくるだろうと。

いやぁ、結局は、私が自然が好きだからだろうね。だんだん年とれば夫婦だけになっちゃうし、自分の楽しみって言ったら怒られるけどね、それも含めて僕たちのもっているものを若い人たちに吸収していただければいいと思っているし、反対に若い人たちに教えてもらうこともあるし。

光子さんの「私は、何も残せないけど、この自然を残すからね」って言葉がやっぱり、私からすると託されたみたいなもんですよ。でも阿寒湖の自然を残すのは、僕らだけじゃできないのです。僕らもまた土台で、次の世代に柱を立てる準備をするのが役目だなと思っています。だからこそ、時間をかけてやろうっていうのが僕の一つの思いです。

取材・執筆:百目木幸枝(さいこうファーム)
撮影:名塚ちひろ(一般社団法人ドット道東)

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