屈斜路湖上で、集団と社会について考える
「集団と社会は違うんだ」
心のリセットの場、屈斜路湖へ行ってきました。フィールドの師匠の案内で、今回はただただ湖と戯れる3泊4日。
ボートから釣り糸を垂らしつつ、周りの木々を眺めていたら、何やら頭上が騒がしい。よく見ると、一羽のとんびをカラスが集団で襲っていました。どうやら巣に近づきすぎたトンビを、その巣の主と隣人(隣鳥?)たちが追い出しにかかっていたらしい。かなり執拗に一団となって撃退劇が繰り広げられていたのです。
「カラスは社会だから、助け合うんだ」
「じゃあトンビは襲われている仲間のトンビを助けないの?」
「助けない」
「じゃ、アオサギは?」
「助けない。集団と社会は違うんだ」
その日は、やたらとアオサギを目撃したのです。群れまではいかなくても、3羽くらいは一箇所に固まって止まっていたり、羽ばたいていたりしたのです。
でも、彼らは「集団」なだけで、「社会」を形成しているわけではない。だから、たまたま隣にいた、或いは集団の中にいた誰かが襲われたとしても、自分に害が及ばない限りは、眼中に入らない。
じゃあ、人間はどうだろう。
人間社会、というけれど、本当に社会になれているのだろうか。幸い、今の隣人とは顔を合わせればお互い挨拶し合うし、ちょっとした会話もする。だから、大きな有事があったなら、多少は気にかけてくれるだろうし、わたしも気にかける。
でも、隣人を知らないお家に住んでいたこともある。お隣さんが男性だったのか女性だったのかすら、未だに知らない。(そりゃそうだ)お互い心配もしなかった。何しろ、知らないんだから。
いわんや、隣のマンションの住人なんて、一人も知らない。誰かが引きこもり状態であっても、気づかないし、気づけない。そんなものかも知れないけれど、だとしたら、これってもはや社会じゃなくて、集団だよね。
そんなことを考えながら、波が少し出てきた屈斜路湖で釣りを続けた。途中、大きなニジマスがヒットしたのだけれど(師匠いわく、40センチ)、最後の最後で糸を切られて逃げられてしまった。
もう一度トライしたけれど、結局その後はヒットはするも、上げられず。ムニエル用に購入した小麦粉とバターとローズマリーはそのまま出番を失ってしまった。
冷え切った身体を温泉で温めてから、師匠が町でゲットしてきてくれた牡蠣を蒸してくれた。ここにニジマスのムニエルも加わる予定だったのにね、なんて笑いながら、二人でサッポロクラシックをぐびぐび飲んだ。さっき船上で白ワインは全部飲み切っちゃった、しまったしまった、なんて言って、また笑った。
キャンプ場には10数人の人がいて、管理をしているお父さんとお母さんと息子さんとは何とはなしに会話をする。今日は波が出てきてるから、湖の奥の方には行けないね。さっきから岸に近いところでアメマスが跳ねているね。今日の温泉はあっついよー、45度。あっはっは。なんちゃって。
他愛のない言葉に、心がたくさん緩んでいく。
朝3時半起きで、世界に5000羽しかいないオジロワシを観察しにカムフラージュボートで出かけたり、船上でフランスパンにハムを挟んでワインを飲んで、冬毛と夏毛のカワアイサのつがいを眺めたりした。
足が鳥居のような朱色をした、警戒心の強いカワアイサらは、カムフラージュボートでなければすぐに逃げてしまうらしいが、迷彩柄のボートはすごい。妙な気配を感じつつも、その正体を掴みきれないからか、カワアイサさんらも逃げるかどうかを延々と決めあぐねている。
第六感はもぞもぞするから、おろおろと右往左往を続けながらも逃亡を決意できない煮え切らない子。「んーーー、ちょっと嫌な感じはするけど、見えないし、いんじゃね?」と堂々と座り込む子。右往左往しないまでも、キョトキョトと不安げにこちらをずーーーっと伺う子。慌てはしないけど、用心深く一定の距離を置き続ける子。
近づきすぎると流石にぱっと飛び立ってしまうけど、それぞれ個性があるから見飽きない。どちらかといえば、オスの方がキョドる度合いが大きそう。メスの方がどーーーんと肝が座っている子が多い。
自然はいつも、何かを教えてくれる。師匠の何気ない言葉や知識も、その時々でわたしに気づきを促してくれる。
次はいつ行こうかな。次回は10日くらいがいいな。。師匠に嫌な顔されない程度に長居するんだ。笑