"宿命づけられた芸術家"Kanye Westは、赦されるのか
Kanye Westが多少、落ち着いた(?)ようだ。
Kanyeは、家族への想いと、Pete Davidsonへの憎しみが爆発し、Instagramに連投、削除を繰り返していた。Kanyeは以前にもTwitterで、一時間に100件以上ツイートしたこともあった。
おそらくほとんどの人が知っている通り、Kanye Westは双極性障害を患っている。
そのため、Kanyeは躁状態になると、行動に歯止めが効かず、ゴッド・コンプレックスが爆発し、パラノイアに悩まされ、愛憎が深くなる。
そのせいで(あと福音派であるせいで)、Kanyeはいくつも失敗してきた。あの悪名高い乱入事件、Saint Pablo Tourでの暴走、奴隷制は選択だった発言、トランプ、共和党支持発言、大統領選演説での根拠の無いデタラメの流布、me too運動、人工中絶への反対表明、アルバムにMarilyn Mansonの起用、Billie Eilishへ意味不明すぎる謝罪要求、そして今回のPete Davidson周辺へ手当り次第の攻撃。これらほとんど全てにおいて、Kanyeが間違っている。特に今回でいえば、多くの人々に直接迷惑をかけた。
そんなKanyeは、世間から、許されるのか。もっといえば、彼を襲ったこの衝動から、解放されるのか。つまり神から、赦されるのか。
結論、Kanyeは許されないし、赦されない。
世間はすでにKanyeをキャンセルし始めている。しかも、カニエの性格上、過去の発言を弁明することも、巻き込んだアーティストに謝罪することもないだろう。
また、双極性障害は、寛解こそしても、治らない。寛解しようにも、パラノイアを患い、かつ治療のあり方に疑問を持つKanyeが長期の薬物治療を受け入れるとは思えないし、以前オピオイド中毒に悩まされていたKanyeにとって、睡眠薬伴うことが多い薬物治療には危険もあるだろう。
もう少し詳しく話す。
まず、Kanyeは世間から許されるのかということについて、つまりキャンセルカルチャーについて、Kanyeは何度か語っている。
あるインタビューにおいては、"人をキャンセルすることは出来ない。なぜなら(Kanyeのように)有名人である以上、自分に影響を与える人は周りに沢山いるし、(有名人でなくとも)人間は誰しもが周りに影響されずに生きていくことはできないだろう。"と述べた。
続けて、"キャンセルカルチャーがアーティストにある種の期待を負わせ、かつ矯正を促している。"と述べ、"Kimとの結婚生活においてもそれが大きく影響した。"とも述べた。
これについてKimも、キャンセルカルチャーを"バカげたもの"とした上で、これに起因するKanyeに対する行いを、後悔している。と述べた。
また先日、Drink ChampsのインタビューでKanyeは、"俺はキャンセルカルチャーを愛してる。俺はその上にいる。キャンセルされるためにやってるんだ。"とし、キャンセルカルチャーをほとんど気にしていないようだ。
つまり、Kanye自身が世間から許されたいなどと微塵も思っていないのだ。だからこんなにも滅茶苦茶できるのだろう。
Kanyeの言動によって、その優れた楽曲が、デザインが、アーティスト性が世の中に伝わりづらいのは本当に残念だが、もはやそれは仕方がないだろう。
それでも、いや、それゆえにKanyeは、おそらく現時点で、Biggestなアーティストだ。
芸術家それ自体の芸術性は、世俗との乖離にこそ、反社会性にこそ定義される。
例えばStanley Kubrickは、作品のモラルや実社会への悪影響について批判された際"芸術家は作品の芸術性にだけ責任を持てばいい"と述べた。反論は多くあるとは思うが、私もおおかた同意見である。少なくとも、美は道徳から離れて在る。
とにかく、システムを一度は外側から観察しなければ、全体は見えてこないのではないか。自我に閉じこまらないと、作品は生み出せないのではないか。(その両方を兼ね備えた状況にあったからこそ、MBDTFという大傑作が生まれた。)
エゴイスティックで世間の反感を買うような言動も目立つKanyeは、そういった意味で、本当のアーティストだ。
さらに、これまでで最も金を稼いだラッパーであるから、Hiphopというスポーツにおいても、ナンバーワンだ。
次に、双極性障害についてだが、これに関していえば、学術的な研究も数多くあり、様々な実体験が様々な媒体で紹介されている。
実際に双極性障害である私個人的には、坂口恭平さんのnoteが面白く、かつかなり的を射ていると思う。
もちろん病気で人をカテゴライズしたり、それによって個人を推し量るつもりは毛頭ない。しかしこれを読んだ時、自分のことだなと思うと同時に、正直なところ、もはやKanye Westという人間の説明のようにも思えてしまった。
例えば、自己中心的なのに、やたらと他人に対してなにかをしたがる。悪や不正を憎み、それを正そうとする。
それは全部が、とは言わないが、多くの部分で自分自身のためである。
それゆえに、Beyonceのために行った、Taylorのスピーチへの乱入。黒人のために言った、大統領選演説。キャンセルされているアーティストのために決めた、Marilyn Mansonの起用。Travisのために行動を起こしたBillieへの謝罪要求。自らの子供たちのために、もしくはKimのために熱望した、家族を取り戻すこと。アーティストの地位向上のために決めた、DONDA2を200$の電子媒体でフィジカルリリースすること。
これら全ては人のために発した、とKanye自身にも思われる言動であるが、根本的に自己中心的な考え方であるため、全てが空回りである。
これらは当然Kanye自身の性格であるが、病的なものでもあるから、仕方がない。
しかし、良くも悪くも、双極性障害特有の自己中心的な考え方や、突飛な言動、優れた行動力は、アーティスト活動において大いに役に立つ。
Kanye自身も、その最もパーソナルなアルバム「Ye」のアルバムカバーにおいて、"I hate being Bi-Polar it’s awesome"としているように、双極性障害のことをスーパーパワーと称している。
これも双極性障害者にはよくある考え方であるが、そうでない人からすれば、開き直りや自暴自棄ともとれるため、Kanyeの精神状態が心配になった人も多いだろう。
しかし、例えばこんな実験結果があった。(出典が見つからなくて申し訳ないが…)
まず、精神障害者も含め、様々な病気を患う人々をグループ分けする。
そこで、「病気を治したいか。」とそれぞれに聞く。
当然ほとんどのグループは「治したい。」と答えたが、双極性障害のグループにのみ、「治したくない。」と答えた人がいたそうだ。
このように、双極性障害は、その人にとって実際に、ポジティブなパワーを持つ場合も大いにある。
少々脱線するが、ここで勘違いしてはいけないのが、気を付けなければならないのが、双極性障害を無理にポジティブに考えようとすることは危険である、ということだ。
もっといえば、自らの障害や病気、不幸の中に宿命的なものを見出して、それのみを根拠に突き進むのは危険だ。
ある程度に不幸であることは、もはや芸術家であることの必要条件のように思えるが、ここに可逆性はない。
自らの不幸に宿命的な意味を見出して、芸術的な才覚を無意識のうちに自らに認めることは危険だ。意欲の元に才能は宿らない。進みたい方向にゴールがあるわけではない。
また前提として、創作は、芸術は、決してやろうとしてやるのではない。やりたいからやるのではない。やらなければ、という必要性に迫られて、やるのである。
人生は、不幸と意欲に溢れた凡人を、幾人も葬った。このことについて、ラッセルが素晴らしい言葉を残している。"モーツァルトやシェイクスピアのような才能がない限り、創作の衝動は恐ろしい呪いである。"
これまでで、双極性障害は芸術向きである。(場合もある。)ということについて述べた。
加えて、Kanyeが身を置くHiphopという文化の音楽的な側面は、かなり芸術的である。
Hiphopは、黒人の、低所得層の、異性愛者によって形成され、(文化というものは常に狭量である。)押韻とリズムという縛りの中で、上手い言い回しを常に模索し、自らと自らの誇りを尊大に表現し、(自らの弱さを明確に表現する仕方が主流になるにはKid cudiの登場を待たなければならない。)時に啓蒙し、時に内省し、ディスによって弁証的に高いレベルを目指し、最終的にどちらが多くの富と名誉を獲得したかを競う物質主義的なスポーツである。もしくはそうであった。前述の通り、Kanyeはここにおいて頂点にいる。
私は、芸術の本質が自我にあると考えている。
例えばHiphopのリリックは、ほとんど自分とその周辺しか語らない。客観性を排している。そのため、Hiphopは自我の音楽である。つまり、この意味において、芸術的な音楽であるといえるだろう。
また、キザで冗長で形式だけのレトリックが持て囃される現代において、パンチラインという考え方、表現方法は、大いに芸術的だ。
さらに、芸術の表現において絶対にやってはいけないことは、おしゃべりだ。説明することだ。
この点、パンチラインという考え方に加え、Hiphop特有のフロウやライミングといったいわば制約は、語りすぎることを抑制した。婉曲や比喩といった詩的表現を、見事な塩梅で組み込むことを可能にした。
そのような表現を持たない、いわゆるマンブルラップでさえ、ある美の定義に拠れば、十分に芸術的である。"純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。"
これらからして、Kanye Westは、その構成からして、宿命的な芸術家なのである。
だから許されるべきだ。とは言わない。
このことは過去何度も触れたが、私が生涯をかけて伝えたいことは、「私たちは、そうであるから、そうである。偶然によって必然的に決まっている。」という事実だ。
「あなたの人生はあなたのせいでもなければ、あなたのおかげでもない。」という事実だ。
あなたがKanye Westでないこと、私でないこと、他の誰かでないこと、私がKanye Westでないこと、あなたでないこと、他の誰かでないことは偶然である。
また、私がKanye Westなら、私は必然的にKanye Westである。
これらと同様に、私が例えば囚人でないこと、大金持ちでないこと、ホームレスでないことは、偶然であり、必然である。
Kanye Westだから仕方がない、躁鬱だから仕方がないのではなく、私たちの持つ思想、行為全てが、理論上、科学的に、仕方がないのだ。
Kanyeが実践しようとしているキリスト教の最も重要な掟、隣人愛は、愛であり、優しさであると同時に、理論である。
これが被害者目線を顧慮していないことは分かっているが、これは私の考え方ではなく、事実なのだから、これも仕方がない。
しかし重要なのは、だからといって、その言動自体を仕方がないで片付けてはならない。
もしKanyeや他のアーティスト、もしくは嫌いな誰かを許せないのであれば、反対に、Kanyeや他のアーティスト、好きな誰かを全面的に肯定しているのであれば、私が述べたことを思い出して欲しい。
前者ならば、その人自身を、その作品自体を憎まないで欲しい。後者ならば、悪や間違いそれ自体は批判して欲しい。
もちろん、何人も物事を理性のみで判断しえないため、この事実を理解している私自身も、嫌いな人は嫌いだし、ムカつく奴はムカつくし、好きな人は好きだ。熱心なキリスト教徒のKanyeでも当然そうだろう。(キリストがもし本当に隣人愛を達成したとするのならば、確かにキリストは人間よりも神に近い。)
しかし、これを思い出した時、少しだけ大人になれる。そういう人も、そう思う自分自身も、仕方ないと思えるようになる。
この諦観にも似た事実認識は、音楽を聴くこと、アートに触れることのみならず、社会生活全般においての精神衛生的にもかなり役立つ。
Kanyeを始め、キャンセルカルチャーのただ中にいるアーティストのために、それを聴くことに迷いがある人のために、社会生活を営む全ての人のために、このことが広く伝わることを願う。
Kanye Westが、私たちが、赦されることを願う。
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