知識VS経験

よく言われる話で、知識と経験どちらが重要なのかといった論題があります。

「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」といった言葉は頻繁に引用されて、その時々で都合のいい解釈を与えられます。

果たして、実際のところどうなのでしょう。
画一的に評価を下せるものではないはずです。
誰を基準に考えるのか?
何を対象に考えるのか?
どこを目標に定めるのか?
外部の要素はどのような状況か?
あらゆる前提が下敷きになって結果的に最善手が生まれるのであり、さらにその戦略は己のみにあらず他者との組み合わせによっても大きく変化するものです。
ゲーム理論のナッシュ均衡のように各々が最大効率を狙おうと、それが全方向で妥当な手になるとは限りません。

私の思うに、こういった堂々巡りに陥りがちな論争は結論が出ないからこそ、議論に終始没頭して何かを生み出した気分になれるからこそ行われるもの。
どちらも手段の一環であって、それ自体が目的にはなりにくいです。(とにかく勉強して知識を増やしたい、何でもやってみたいといった人は当然いるとは思いますが)

例えば、「私」が「プログラミングと先端デバイス」で「思いついた面白いアイデアを元に作品を作る」目的に向かって「独学」で行うのであればどうか。
私はどういったデバイスを使って、どういった言語で、どのようなライブラリを使うかを綿密に調べてしまい、結果的に面倒になってしまうことが多々あります。細かく考えすぎて最終的には手につかないことはついついやりがちですが、この場合知識を貯めていくことは最善手ではなかったのでしょう。
私のやるべきはとにかく作りたい作品の土台、プロトタイプになるものを品質問わず作ってみることだったのです。その経験から改良点や必要となる知識を補っていく形が適していたのです。

あるいは、「友人」が初めて「カメラ」によって「趣味の写真を撮る」目的で「奇麗な取り方を教えてほしい」と言ってきたらどうか。
やってみないと分からないと提案してカメラを買わせ、何でもいいから写真をたくさん撮ってもらい添削するのは簡単です。しかし、最初からがむしゃらにやってみる心持ちならばまだしも、自分で何から始めていいか分からないから私を頼ってきた相手には酷な対応に思います。経験者として整理した最低限の知識を伝えて、徐々に色んな撮り方を試してもらう方が効率的でしょう。

「抽象化」して考えることは私も好むところで、ついつい何でも大枠でとらえて白黒つけて考えがちです。
学問の世界では「抽象化」(「一般化」と言い換えた方がピンときますね)は重要な考え方になりますが、得てして頭でっかちになる要素です。一方で、現場での具体例をただただ取り上げて、小手先で解決に終始するのは非効率的な方法論になります。
理論と実践は、常に対になって存在しています。

ここまで引っ張っておいて、知識と経験は場に応じてバランスを取るべきだなんて結論はつまらないですが、そもそも深く考えることに意味がないのです。
あえて実用的な解決手段を考えるとすれば、自身の目的達成に向けて適切なアドバイザーを据えて、「知識(抽象化)」と「経験(具体化)」を交互に切り替えて着実に前進する手助けをしてもらうことでしょう。
このサポート役には、客観的な自分を置いてもいいのかもしれません。

方法論の模索で足踏みして目的達成から遠ざかるくらいなら、慣れている人に導いてもらう。本来教師の役割ってそういうものなのだったのではないのでしょうか。

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