【魔拳、狂ひて】西洋人形の電話 八(完)
8
静まり返った部屋の外から、雨音が流れ込んでいる。
雨の勢いは一向に衰えることはなく、地面や建物を打つ激しい音が聞こえていた。
「…………」
ソファーに座りながら、マリーは虚ろな表情を浮かべていた。
相変わらず、その瞳は何も写してはいなかった。
「…………」
その様子を、衛は背後から見つめていた。
気持ちの整理がつくまで、言葉を掛けず、そっと見守っていた。
──君島宅を訪問した後、二人は衛のマンションへと帰宅した。
マリーはその間、一言も喋らなかった。
今と同じく、虚ろな表情を浮かべ、只々、虚空を見つめていた。
「…………」
マリーは、部屋に到着しても、未だに一言も言葉を発していない。
まるで魂が抜けてしまったかのように、力なくソファーに身を任せていた。
(……無理もない)
衛はそう思いながら、静かに目を伏せた。
六年間──他の妖怪に追われ続けながらも、主人に会いたいという願いを胸に抱き、マリーはひたすら探し続けていたのである。
その結末がこれでは、彼女がショックで放心状態になるのも無理はなかった。
(……俺は、何もしてやれないのか……?)
衛は、目を伏せたまま考え込む。
(このままじゃ、あまりにもこいつが報われない。俺がしてやれるのは、北村さつきの冥福を祈ることだけなのか……?)
歯痒い思いをしながら、衛はひたすら思考を繰り返していた。
その時。
「……最低だ……」
「……?」
今にも消え入りそうな声で、マリーがぽつりと呟いた。
君島の自宅を出て以降、初めて口を開いた。
その声に、衛は伏せていた目を僅かに開く。
「あたし……最低だよ……。……あたし……自分のことしか考えてなかった……」
「……」
肩を震わせながら、マリーは声を絞り出した。
その声を聞いた衛は、己の心が悲しみに染まっていくように感じた。
「……あたし……あたしは……捨てられたんだと思ってた……さっちゃんは……あたしのことが嫌いになったから……あたしを捨てたんだって……あたしがいらなくなったから、捨てたんだって……」
「……」
マリーの声に、徐々に嗚咽が混じっていく。
肩の震えは、だんだん大きくなっていた。
「でも……違った……。……さっちゃんは……死んじゃってたんだ……。……あの時……あたしが海岸にいたのは……捨てられたんじゃなくて……事故の時に……車から放り出されただけだったんだ……! ……けど……そんなことも知らないで……あたしは……あたしは……! 『何で捨てられたんだろう』って……! 一人で、勝手に……裏切られたような気持ちになって……!」
「……」
何かが滴る音がした。
衛には、何が零れたのか分かった。
それが何なのかは見えなかった。
しかし、それでも分かった。
鼻を啜り、嗚咽を堪えながら、マリーはまた呟いた。
「さっちゃんは……天国に行けたのかな……? パパとママと……天国で、仲良く暮らしてるのかな……?」
その時であった。
(……? 『天国』……?)
マリーの発した呟き。
その言葉が、衛の頭の中に、ある疑問を生んだ。
(……さっちゃんは……本当に死んだのか……? もし死んでいたとして……彼女は、本当にあの世に行けたのか……?)
君島から聞き出した、事故の状況。
その話と、マリーが口にした『天国』という言葉が、ゆっくりと結び付き始める。
衛が再び考え込み始める。
が、しばらくして──
「……衛」
「……?」
──不意に呼び掛けられ、衛が思考を中断した。
マリーがソファーから立ち上がり、衛のそばに歩み寄っていた。
涙と鼻水で、顔中がぐしゃぐしゃになっていた。
「……お願いがあるの」
「……何だ」
マリーの言葉に、衛が尋ねる。
だが衛は、マリーが何を頼もうとしているのか、何となく理解していた。
マリーは一度鼻を啜り、悲しい笑顔を浮かべながら頼んだ。
「……あたしを……殺して……」
「……」
その願いを聞いても、衛の顔色は変わらなかった。
衛が予想した通りの言葉であった。
「……それで、良いのか?」
衛が問う。
それに対し、マリーはこくりと頷いた。
「……さっちゃんに、謝らなきゃ……」
力なく、マリーが呟く。
「さっちゃんは……天国にいるんだ……だったら、あたしも、天国に行かなきゃ……天国で……さっちゃんを疑ったことを……謝って来なきゃ……」
俯きながら、マリーが声を絞り出す。
「あんたは今まで……何体も妖怪を殺してきたんだよね……? ……だったら……あたしも殺せるでしょう……?」
「……ああ、俺なら殺せる」
「……だったら……あたしを、殺して……? あたしを……さっちゃんの所まで送って……?」
そう言うと、マリーは顔を上げ、寂しそうに笑った。全てに絶望し、生きることを諦めた者の目であった。
そんな笑顔を浮かべながら、マリーは衛の返事を待った。
彼ならばきっと、了承してくれる。そして、自分を必ず、天国へと送ってくれるはず──表情に、そう浮かんでいた。
「……」
沈黙の後、衛がゆっくりと口を開いていく。
マリーの頼みに対し、返答をするために。
だが、衛の答えは──
「……それは、出来ない」
「えっ……?」
──マリーの望みとは、反するものであった。
「……なんで……? どうして……!? どうして、あたしを殺さないの……!?」
「……悪い。 言葉が足りなかった。『俺の話を聞いてからもう一度考えろ』って言いたかったんだ」
衛のその言葉に、マリーが眉を寄せる。
説得などしても無駄だ──そんな意思が形になり、顔に浮かんでいた。
だが、そんなマリーの様子など意に介さず、衛は語り始めた。
自分が今、言おうとしていることが、どれほど残酷なことなのかを知りながら。
そして、これから提案しようとしていることが、マリーにとってどれほど過酷なことなのかを知りながら。
「確かに、お前が死ねば、天国にいるさっちゃんに会えるかもしれない。ただし、それはさっちゃんが成仏して、天国に行っていたらの話だ」
「……どういうこと?」
怪訝な顔でマリーが尋ねる。
「君島先生が仰っていたことを憶えてるか?」
「……?」
「あの事故の後、両親は遺体で発見されたけど、さっちゃんは結局見付からなかった。六年経った今もな」
衛の言葉によって、数時間前の出来事が、マリーの頭の中に甦る。
その時のマリーは、『さつきが死んだ』という一点に囚われ、その他の情報を気に留めてもいなかった。
「……『さっちゃんはどこかで生きてるかもしれない』……ってこと?」
「それも有り得るかもしれない。奇跡に近い確率だけどな」
「……ハッ……」
マリーはやさぐれたように笑う。
衛が口にした可能性に対し、『現実を見ろ』と小馬鹿にするように。
そして──そんな衛の話に、僅かに希望を抱いてしまった己を自虐するように。
「……有り得ないわよ。なら今、さっちゃんはどこにいるの? 第一、もう六年も経ってるのよ……?そんなに長い時間が経ってるなら、さっちゃんはどうして、自分は生きていますって申し出ないの……?」
「まあ、そうだろうな。確かに俺も、あんな状況で彼女が生き延びているとは思えない」
「ほら見なさいよ。だったら──」
一気にまくし立てようとするマリー。
そんな彼女の話を、衛は片手で制した。
「まあ聞けよ。……俺も、彼女は死んでるんじゃないかと思う。だが本当に死んでいるんだとしたら──」
衛はそこで、目を僅かに伏せた。
「……彼女の遺体は、一体どこにあるんだろうな」
「……? それは……当然、海の底に沈んでるんじゃないの……?」
怪訝な顔のまま、マリーが答える。
その返答に対し、衛は小さく頷いた。
「おそらく、その通りだ。彼女の遺体は今も、海の底に沈んでいる。突然の事故で死んで、両親の遺体だけが引き上げられて、暗く冷たい海の底に、一人ぼっちで……」
衛の声が、だんだん小さくなっていく。
その声につられるように、マリーはだんだん心細い気持ちになっていくように感じた。
「そんな状態で、彼女が成仏出来たと思うか……?」
「…………あ…………」
マリーの表情に、驚きが混じる。
絶望、悲しみ、驚き──それらが混じった、複雑な表情であった。
「彼女の魂は、まだこの世に留まっているのかもしれない。もしそうだとしたら……いずれ悪霊になって、人々に危害を与えてしまうことも有り得る」
「な……!?」
マリーが目を見開く。
直後、怒りと動揺を堪えながら、衛に反論した。
「う……嘘、嘘よ! さっちゃんはそんなことしないわ!!」
「あくまで可能性だ。俺の考え過ぎかもしれないし、実際にそうなる可能性もゼロじゃあない」
「そっ……そんな……!」
マリーが悲痛な声を上げる。
その声に、衛は己の心が若干傷むのを感じた
だが、表情は全く変わらなかった。
依然として、無表情のままであった。
「……何とか……何とか出来ないの……? さっちゃんを、成仏させてあげることは出来ないの……?」
「……方法は一つ。彼女の遺体を探し出し、きちんと弔ってやることだ」
「……」
そのやり取りの後、マリーが沈黙する。
これから自分はどうすればいいのか──混乱し、頭の中が滅茶苦茶になっていた。
「……もう少し、生きてみないか?」
その時、衛が優しく語り掛けた。
「ここで死んでも、さっちゃんに会えるとは限らない。さっちゃんを見つけて、しっかりと弔ってやって、その後にあの世に行くってのも手だぞ」
マリーはなおも沈黙していた。
衛の提案を咀嚼し、どうすべきか考えるように。
しばらくして、マリーが口を開いた。
「……無理だよ……」
「……」
「無責任な事言わないでよ……。もしあたしが生きることを選んでも……きっとまた、意地の悪い妖怪に狙われて、結局殺される……! 第一、お金も住む所もないのよ……? これからどうやって生きていけって言うの……!? また必死に逃げ続けなきゃ行けないの……!?」
「……」
「それとも……そんなこと提案するんだったら、あんたがここで、あたしを養ってくれるとでも言うの……? あたしを、悪い妖怪共から守ってくれるとでも言うの……!? 退魔師のあんたが、妖怪のあたしを……!」
そうまくしたてた後、マリーは嘲るような笑みを浮かべた。
蔑むように細めた目の端には、涙の粒が滲んでいた。
「……」
衛はしばらく沈黙し──真剣な表情で告げた。
「お前がそれでいいなら、俺は構わねえよ」
「えっ……!?」
衛の返答に、マリーが驚愕する。
そんなことをしてくれるはずがない──そう思って投げ掛けた問いであったため、衛が承諾したことが信じられなかった。
「ただし、俺はお前を養うつもりはない。ここにいる以上、やるべきことはやってもらう」
「……やるべきこと?」
「退魔師の助手として、俺の仕事をサポートすること。それが条件だ」
「え!?」
衛が突き付けた条件。
その内容に、マリーは再び驚愕した。
「む、無理よ! あたしには、闘う力なんて無いのよ!?」
「分かってるよ。落ち着け」
衛はそう言って、マリーをなだめる。
そして、冷静な調子を崩さずに話を続けた。
「確かに、お前には闘う力は無いかもしれない。けど、昨日お前は『道具から持ち主の居場所を特定する能力を持っている』と言ったな。それさえあれば、仕事のサポートには十分だ。妖怪共との殴り合いなら、俺が引き受ける」
「……」
「もしまた、お前を狙う妖怪が来たのなら、俺が一匹残らず叩き潰してやる。売られた喧嘩は買う。仲間の喧嘩は俺の喧嘩だ」
衛は淡々と──しかし、力強さを滲ませながら、そう言った。
「俺の提案はこれで終わりだ。選ぶのはお前自身だ」
「……」
マリーは一度、下を向いた。
そのまま、しばらく黙り込む。
「……一つだけ、教えて」
「何だ」
衛が短く返事をする。
それを聞いて、マリーはもう一度顔を上げた。
そして、衛のやさぐれた悪人のような目を見つめ、問い掛けた。
「どうして、そこまでしてくれるの……?」
「……」
「あたしは人間じゃなくて、妖怪なのよ……? それなのに、どうしてそこまで親身になってくれるの……? あたしが子供だから……? それとも、あたしがかわいそうに見えるから……?」
「いいや、違う」
衛は、マリーの言葉を否定する。
そして、彼女の目を真剣な眼差しで見つめながら、答えた。
「主人を想うお前の気持ちが、本物だからだ」
「……!」
「お前はこの六年間、自分が命の危機に晒されている状況でも、主人を探し続けた。普通ならそんなこと出来ねえ。主人のことを本当に想っているから出来たんだ。……だから俺は、一人の人間として、お前に対して敬意を払いたくなった。ここでお前を死なせる訳にはいかなかった。主人を想うお前の気持ちを、無駄にはしたくなかった。ただそれだけだ」
「……」
衛が、マリーに目線を合わせるようにしゃがみ込む。
その瞳には、強い意志が──決意が宿っていた。
「もう一度言う。選ぶのはお前自身だ。さあ、どうする?」
「……」
驚きに染まったマリーの表情。
その両目から、涙が零れ落ちた。
「……そんなの、決まってるじゃない」
マリーはそう呟くと、流れる涙を腕で拭った。
その腕をどけると、そこには笑顔があった。
先程のような、自虐的な笑みではない。
生きようとする意志と、主人を探し出すという決意に満ちた、力強い笑顔であった。
「……あんたの助手になる。そして、絶対にさっちゃんを見つける。さっちゃんを見つけて、パパとママのお墓に一緒に入れてあげる……!」
「……そうか。分かった」
「うん……だから──」
そう言うと、マリーは微笑みながら右手を差し出した。
「これからよろしくね、衛」
「……ああ」
衛は、マリーが差し出した手をしっかりと握る。
そして、真剣な表情のまま、言った。
「よろしく頼むぜ、マリー」
──外は未だに、雨であった。
しかし、先程よりも雨足は弱まっており、水滴はまばらに地上に降り注いでいる。
その雨を降らせている雲の隙間からは、夕焼けの光が優しく差し込んでいた。
第3話 完