【魔拳、狂ひて】西洋人形の電話 二
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某所のマンション、二〇三号室。
その中にある和室で、一人の青年が座禅を組んでいた。
「…………」
退魔師、青木衛である。
白の練功用カンフーパンツに、黒のTシャツというシンプルな出で立ちであった。
顔には無数の汗の粒が浮いており、時折、線を描くように首元へと流れていく。
凶悪な妖怪すら怖れる彼の目は今、静かに閉じられている。
彼の規則的な呼吸音のみが、和室の中に響いていた。
衛は現在、自身の気を練り高める、仙術の鍛練法を行っていた。
彼の体内に宿る、人智を超えた力を打ち消す特殊な気、『抗体』。
人外の化け物共との死闘において、抗体は衛が生き延びる為の重要なファクターの一つである。
その為、衛は日頃から、気を練る鍛練を行っていた。
今日、衛は早朝から正午にかけて武術の練習に励み、それから自宅に帰って、この鍛練を行っていた。
退魔師としての仕事がない日は、大抵こうやって、一日を自己鍛練の時間に費やしていた。
「…………フー…………」
深く息を吐き、両目を開く。
時計に目を向けると、時刻は既に十八時を回っていた。
そろそろ腹が空いてきた。一旦切り上げて、早めの夕食にしても良いかもしれない。
そう思った衛は、座禅を組んでいた足を崩し、おもむろに立ち上がった。
今日の夕食は、昨晩作った特製の牛筋カレーである。
具材として、牛筋の他に太めに切った野菜が大量に入っている。
更に隠し味として、熟し切って黒くなったバナナを投入し、そのまま手を付けず、丸一日寝かせてある。
甘さ、辛さ、コク──そのどれもが、素晴らしいものになっているはずである。
香ばしい香りと味を想像するだけで、衛の口の中に唾液がじわりと湧き上がった。
「……早速温めるか」
そう独り言ち、キッチンへと向かおうとした。
その時であった。
ひっそりとした和室内に電子音が鳴り響く。
衛の携帯電話の着信音であった。
「……?」
電話の画面を見る。
非通知であった。
仕事の依頼であろうか──そう思いながら、電話に出た。
「はい、青木です」
手短に挨拶をする。
相手からの返答はない。
「……仕事のご依頼でしょうか?」
衛は眉をひそめながら、電話の相手に問い掛ける。
それでもなお、電話から帰って来るのは無言であった。
「……もしもし?」
不審に思いながら、再び問い掛ける。
しばしの無言。
その後、電話の相手が、初めて言葉を発した。
『もしもし、あたしマリー。今、公園にいるの』
そう告げると、相手は通話を唐突に切った。
ツー、ツーという不通音がなっている電話を見つめ、衛が怪訝な顔をする。
「……? マリーって誰だ……?」
仕事柄、衛は様々な人間と面識を持っている。
だが、マリーと名乗る人物には会った事は無かった。
電話の相手の声は、幼い少女の声であった。
おそらく子供の悪戯か、間違い電話だろう。
そう思い、衛は気を取り直し、キッチンへと向かった。
そしてキッチンに到着し、カレーを温め直そうとした時。
再び、携帯の着信音が鳴った。
(……またか?)
携帯の画面を見る。
またもや非通知であった。
「もしもし」
衛が再び電話に出る。
すると、今度は無言の間はなく、すぐさま声が返ってきた。
『もしもし、あたしマリー。今、レイニーの前にいるの』
そこまで言い終わって、また電話が切られた。
「レイニー……? スーパーのレイニーか……?」
少女の声が示した場所。その場所を、衛は知っていた。
日本各地に存在する、スーパーマーケットのチェーン店、レイニー。
衛が住むマンションの近くにも、レイニーはあった。
(そういえば、確かさっきは公園にいるって言ってたな)
衛の住居に最も近い公園は、レイニーの先にあった。
レイニーから歩いて五分ほどの所である。
(俺の家に近付いて来てるってことか。 『メリーさんの電話』のつもりか……?)
都市伝説として知らぬ者はいない程有名な怪談『メリーさんの電話』。
衛に掛かって来た電話は、その怪談の例と酷似していた。
報復にしては、妙に手の込んだ真似をする──そう思った。
衛は仕事柄、人外の者達と頻繁に戦闘を行っている。
葬って来た敵の数はもはや数えきれない程であり、退治された者の仲間など、衛に恨みを持った者も少なくはない。
その為、報復の為に衛の住居を突き止め、襲撃してくることも数回程あった。
だが今回のように、やたらと回りくどい手段を使うパターンは初めてである。
(……まあいい。今はとにかく飯だ)
カレーの入った鍋に火を付ける。
先程から腹の音が何度も鳴っており、もう我慢の限界であった。
腹が減っては戦は出来ぬ。
もし仮に、この電話が敵の作戦によるものであったとしても、空腹の状態では全力を発揮することなど出来はしないのである。
数分後。
鍋の蓋を開けると、グツグツと音を立てながら、カレーが香ばしい匂いを放っていた。
「……よし、上出来だ」
皿に白飯を装い、カレーをかける。
熱がしっかりと通り、とろとろになった牛筋と、大きめの野菜。
その視覚的効果により、衛の食欲は更に引き立てられた。
机に座り、カレーに向かって手を合わせる。
静かに目を閉じ、食材を作った人々への感謝の気持ちを心に込める。
そして、カレーの具材として命を散らせることとなった、全ての生命に祈りを捧げ──
「いただきま──」
──その時、衛の感謝の言葉が中断される。
三度目の携帯の着信音が鳴り響いたのである。
「……」
衛の表情が、見るからに不機嫌そうなものに変わる。
携帯の画面をみると、やはり不通知であった。
「……チッ」
舌打ちをし、電話に出る。
「誰かは知らねえが、もう悪戯は止めろ。俺の飯の邪魔をするな」
『もしもし、あたしマリー。今、バス停の前にいるの』
衛の忠告を無視し、相手が一方的に告げる。
そして、電話を切られた。
告げられた場所は、更にマンションに近付いた地点であった。
衛はしばらく、電話を耳に当てていた。
その後、電話を持つ手をゆっくりと下ろす。
「…………上等だ」
衛の両目が途端に鋭くなる。
食事前の穏やかであった雰囲気がピリピリとしたものに変わり、全身から殺気がじわりと滲み出ていた。
(マリーだか何だか知らねえが、俺の飯の邪魔は許さん)
衛は席を立ち、早足で和室へと直行する。
そして扉に背を向け、座禅を組んだ。
静かに目を閉じ、精神を集中させる。
(たっぷりと持て成してやる。俺なりのやり方でな……!)
座禅を組んで一分後、衛の電話が鳴る。
衛は目を閉じたまま、電話に耳を当てた。
「……」
『もしもし、あたしマリー。今、あなたが住んでるマンションの前にいるの』
幼い少女の声。
そして、電話が切られる。
衛は目を閉じたまま、更に精神を統一させた。
近くに、微弱な妖気を感じる。
詳しい位置などははっきりと分からないが、恐らく、マンションの前の地点にいる。
妖気の正体は、間違いなく電話の相手──マリーであろう。
「……」
衛は引き続き、精神を研ぎ澄ませていた。
部屋中にピリピリとした空気と、重苦しい沈黙が漂い始めた。
──それから更に一分後、着信音が鳴る。
衛はなおも目を閉じたまま、電話に出た。
「…………」
『もしもし、あたしマリー。今、あなたの部屋の前にいるの』
少女の声の後、またしても一方的に通話が打ち切られる。
その時、衛がおもむろに立ち上がった。
両目は相変わらず閉じられたままであったが、全身の不要な力が抜かれ、いつでも動ける体勢であった。
体から発せられている殺気を押し殺す。
張りつめていた空気が徐々に緩和されていき、先程まで臨戦態勢であった人間がいたとは思えない程、室内が平穏に包まれた。
その室内の雰囲気に、小さな妖気と微弱な殺気が混じった。
放たれている地点は扉の前。
即ち、衛の真後ろであった。
その時、背後から僅かに物音が聞こえた。
おそらく、扉が開く音である。
同時に、電話が室内に鳴り響く。
衛は無言で、通話のボタンを押した。
「………………」
電話を耳に当てる。
無言のまま、相手が言葉を発するのを待った。
そして遂に──電話の受話口と、衛の背後から、幼い少女の声が聞こえてきた。
「『もしもし、あたしマリー。今、あなたの後ろ──』」
その時、押し殺していた衛の殺気が瞬時に膨れ上がった。
「せいッ!!」
振り返ることなく、背後に向かって後ろ蹴りを放っていた。
「うぎゃっ!?」
蛙が潰れたような声。
直後、何かが扉に叩き付けられたような音が鳴る。
そしてゆっくりと、襲撃者が放っていた殺気が弱まっていった。
「………………」
殺気が完全に消え去ったことを感じ取り、初めて衛が振り返る。
足元には、襲撃者と思しき少女が倒れていた。
泥で汚れたドレスを身にまとった、金髪の少女である。
「……こいつが、飯の邪魔をした犯人か」
衛がおもむろに近寄り、少女を見下ろす。
「きゅぅ~……」
少女は目を回しながら、完全に気絶していた。