【魔拳、狂ひて】構え太刀 六
7
「──あああああああああああああああああッ!!」
己を苛む悪夢から逃れるように、斉藤正弘は絶叫を上げながら、ベッドから跳ね起きた。
両目を見開き、全身の毛穴からは、べっとりとした嫌な汗が噴き出していた。
「はぁ……はぁ……っ」
荒く息をしながら、ゆっくりと目を閉じる。
平静を取り戻すのを待ってから、おもむろに窓の外を見た。
外はいつの間にか、土砂降りの雨が降り注いでいた。
時折雷鳴が轟き、薄暗い景色を照らしている。
風も吹き荒んでおり、開けっ放しになっている窓から、雨風が入り込んでいた。
──窓を閉めなければ。
そう思い、ベッドから立ち上がろうと、斉藤は下半身にかかっている布団をめくった。
その時、己の右足が見えた。
ゆっくりと、自分が今どこにいるのか、自分が今どうなっているのかを思い出した。
「……そうか……そうだったな」
そう呟き、頭を垂れた。
斉藤の右足は、膝の上から爪先までの部分が無かった。
代わりに、念入りに包帯が巻かれており、痛ましい姿を晒していた。
斉藤は今、とある病院──その病室の中の一室にいた。
彼がここに運ばれたのは、四日前のことであった。
あの日、彼は妻の美晴と共に、渋谷の街を訪れていた。
そこで彼らは、謎の三人組による無差別殺人に巻き込まれてしまったのである。
その時、斉藤は妻と、己の右足を失った。
右足の原型が残っていれば、手術で再び繋ぎ合わせることが出来たかもしれない。
しかし、斬り落とされた右足は、原型が残らない程に細切れにされており、復元する事は不可能であった。
彼は二度と、己の両足で歩くことが出来なくなった。
しかし彼は、自分はまだ運がいい方だろうと考えていた。
斉藤は足を失ったが、命に別状はなかった。
だが──美晴は、命を失った。
斉藤と違い、生きる事すら出来なくなった。
「美晴……」
己の心にぽっかりと空いた穴からこぼすように、斉藤は妻の名を口にする。
しかし、最愛の妻からの返事は返ってくることは、もう二度とない。
斉藤と美晴が結婚式を挙げたのは、僅か一ヶ月前の事であった。
小さい頃からの幼馴染で、遊ぶ時も、勉強をする時も、いつも美晴は傍にいた。
そんな日常を送っていくうちに、いつの間にか斉藤の心の中には、美晴に対する恋心が芽生えていた。
そしてその感情は、美晴の心の中にも生まれていた。
かくして、彼らは八年という交際期間を経て、夫婦となった。
それからの一ヶ月は、本当に幸せな毎日であった。
仕事で嫌なことがあっても、家に帰れば、妻が笑顔で出迎えてくれる。
その笑顔を見る度に、次の日も頑張ろうという意欲が湧いてきた。
休みの日には、二人で外まで遊びに行った。
都会の街を歩いたり、自然に満ちた場所を堪能したり。
何もすることが無くても、一緒にいるだけで、満たされた気持ちになった。
これから先も、そんな幸せな日々がずっと続くと思っていた。
死別するまで、二人で愛を育んでいこう──そう心に誓っていた。
だが、幸せに満ちた生活は、僅か一ヶ月で崩れ去ってしまった。
斎藤は、鮮明に覚えている。
美晴が、恐ろしい殺人鬼の手にかかり、惨たらしく殺される光景を。
──二人の間で交わされる、たわいない会話
──妻の幸せそうな笑顔。
──突如、右足に走る激痛。
──切断された己の右足の成れの果て。
──隣から聞こえる、妻の悲鳴。
──青ざめた妻の表情。
──その瞳から失われる、生気の光。
──一瞬でバラバラに斬り裂かれる、最愛の女性の五体。
──己の口から発せられる、恐怖と嘆きの叫び声。
そして──そんな悲鳴など意に介さず、人々を斬り殺していく殺人鬼。
──その男が浮かべる、人間とは思えないおぞましい笑み──。
「うっ──ぐ──」
喉の奥から込み上げてくる酸っぱいものを感じ取り、斉藤の意識は現実に引き戻された。
吐き気を堪え切れず、斉藤は傍らに置いてある洗面器に、激しく嘔吐した。
「っげ──う、げええ──」
空っぽの洗面器が吐瀉物により満たされていく。
胃の中が空洞になるまで吐き出した後、斉藤のえずく声が、徐々に嗚咽へと変わっていった。
「うっ……ぐっ……ちくしょう……美晴……美晴……!」
悲しみと喪失感が涙となり、固く閉ざした斉藤の両目から零れ落ちた。
同時に、己の足と妻を奪い、代わりに絶望を押し付けてきた殺人者に対し、怒りと憎しみが込み上げた。
──俺が何をした。
──美晴が何をした。
やり場のない怒りに、ベッドを何度も殴りつけた。
事件後、初めて病室で目を覚ましてから今日に至るまでの間、斉藤は何度も、犯人に復讐してやりたいと考えていた。
出来る事なら、自分がこの手で敵を討ちたいと思った。
自分の手で、犯人を美晴と同じ目に合せてやりたいと思っていた。
しかし、右足を失い、歩くこともままならない今の斉藤に、何が出来るというのか。
ましてや、たった三人で、二百人以上の人々を殺傷する者が相手なのである。
仮に五体満足な体であったとしても、返り討ちにされるであろう。
そう考える度に、自分の無力さが情けなくなった。
ならばせめてと、警察の事情聴取に積極的に協力した。
本当は面会謝絶だったのだが、警察関係者の面会にだけは応じ、自分が持つ犯人の情報を全て提供した。
今の自分に出来る犯人への復讐は、これしかないと思ったからであった。
だが、心の片隅には、それも徒労に終わるのではないかと考えている自分がいた。
斉藤は見ていた。あの日、犯人達が現場で見せつけた、人間とは思えないような力を。その残虐性を。
それを思い出すたびに、あの殺人鬼達は、本当に人間ではないのかもしれないと考えてしまうのだ。
警察はこれからも捜査を続けるが、きっと逮捕できないであろう。
犯人に辿り着いたのだとしても、彼らもきっと為す術もなく殺されるに違いない。
そもそも、警察は今も、犯人の足取りすら掴めないでいるのである。
もしかしたら、このまま事件は迷宮入りし、人々の記憶からも、忘れ去られてしまうのかもしれない。
斉藤の心の中には、そんな考えが片隅に蔓延っていた。
しかし、それだけはどうしても許せなかった。
妻を──自分のように大切な者を失った人々の悲しみを、このまま無かった事にされるのだけは納得できなかった。
そして、『卑劣な殺人鬼達をのさばらせたままで、結局自分達は泣き寝入りすることしか出来なかった』という結末になることだけは、絶対に御免であった。
自分に出来ることはもう、何一つ残っていない。
それでも何か出来ることがあるとすれば、それは神仏に祈ることだけであった。
──斉藤は無宗教者である。
今日に至るまで、大勢の人の力を借りて生きていたが、神や仏など信じていなかったし、頼ったこともなかった。
随分と虫のいい話だと斉藤も思っていたが、それでももう彼に出来ることは、神仏に願いを聞いもらうことしかなかった。
「神様……仏様……。いや、この際もう誰でもいい。俺の願いを聞いてください……」
斉藤は、振り絞るように言葉を口にする。
そして心の中に、奪った者と、奪われた者の姿を思い浮かべる。
「奴らに、罰を与えてください……」
──美晴達を殺した、憎むべき三人の殺人鬼を。
「美晴の……大勢の人の仇を……!」
──あの日渋谷にいた人々の姿を。
──その中に混じって笑う、美晴の姿を。
「誰か……俺に……俺達に代わって……!あいつらを……皆の仇を、討ってくれ……!!」
嗚咽を堪え、涙を流しながら、悲痛な願いを捧げた。
しかし──その声に、応じる者はいなかった。
何の言葉も、何の答えも、聞こえてこない。
代わりに耳に入るのは、土砂降りの雨が地面を激しく叩く音と、それに混じるように轟く雷鳴のみであった。
──天罰などない。
──敵討ちが出来る者など、いるはずもない。
そう悟ると、斉藤は顔をくしゃりと歪め、再び号泣するのであった。
──その時であった。
「……!!」
斉藤の背筋に、ひやりとしたものが走った。
それと同時に、涙と嗚咽がピタリと止まる。
「……?」
斉藤が硬直する。
病室内の空気が変わっていた。
薄暗い病室の中は、奇妙な緊張感に満ちていた。
窓の外で再び雷が轟き、室内が雷光によって照らされる。
その一瞬、斉藤は目にした。
病室の出入り口に、一人の青年が佇んでいる光景を。
その青年の、悪人のように荒んだ目を。
「……!」
斎藤は、その青年を見た時、警察か報道関係の人物なのではないかと思った。
しかし、そう思い浮かべた直後に、斉藤は自分の考えを否定した。
その青年がまとっていた雰囲気が、そのどちらかに属する人間とも異なっていたからである。
「斉藤正弘さんですね」
青年が、初めて声を発する。
うろたえている斉藤とは対照的に、静かに落ち着いた声であった。
「あ、あなたは……?」
「申し遅れました。私は、青木衛と申します」
青年はそう名乗り、会釈をする。
悪人のような風貌とは裏腹に、その仕草はとても丁寧であった。
「……今は、面会謝絶中なのですが……」
「ええ、分かっています。ですが、どうしてもあなたに聞いておかなければならない事があるんです。どうか、無礼をお許しください」
「『聞きたい事』ですか……?」
「はい──」
衛のやさぐれた目付きが、凄みを帯びた鋭いものに変わる。
その迫力に、思わず斉藤は息を呑んだ。
「四日前に起こった、渋谷の無差別殺人の犯人について」
そう告げる衛の瞳の奥には、溢れんばかりの憎悪の炎が燃え上がっていた。