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山宿すったもんだ #2

 (つづき)翌朝、無事に朝食を提供し、宿泊客を見送った宇宙人は、午前中の仕事を片付けた後、おもむろに閃いてお湯のポット片手に風呂場へ向かった。硫黄泉で洗髪し続けたせいで髪がゴワゴワする。掃除用のホースで真水が出せるから、ポットのお湯とブレンドして木桶ですすいでみよう。ザブザブ。あ、いい感じじゃん。サラサラになった。今後はこれで行こう、と一つ改善が叶って満足気な宇宙人。そんな時に歩荷からクマが帰って来た。
 「お帰りなさい。お待ちしておりました!」と上機嫌で迎える宇宙人に、開口一番「お前はクビだ!」と言い放つクマ。え? どうしたのかな? あ、もしかして、この四日間客が少な過ぎてヒマだったから、スタッフは三人もいらないことにようやく気付いたのかな。まあ定員30名の宿なら三人目はいなくてもいいよね。オーナーの意向なら仕方ないが、随分急だ。「いま下山すれば四時半のバスに間に合うから、すぐに出ていけ」とか言ってる。バスに間に合うなら助かる。すぐに荷造りしよう。でも理由は何だね。昨夜のガス騒動ではシニアが醜態をさらしたが、私が指示しなければ解決しなかったと思う。クビにするなら私よりもシニアが先だと思うのだが。

 クマの拙い言い分を要約すると、別に人員を適正な数まで減らしたいわけではなく、単に私が頼んだ買い物が気に食わなかったらしい。それは今朝のことで、シニアがクマと電話しているのが聞こえたから、まだ下界にいて間に合うのならトイレ掃除用に使い捨てゴム手袋をひと箱買ってきて欲しいと頼んだのだ。しかしこれのどこがクビに繋がるのやら。
 クマの言い分を人語に翻訳すると、…うーん、やっぱり整合性がない。私は途上国に暮らした経験から、水洗でないトイレが感染症に弱いことをよく知っている。山小屋は標高が高いほど水洗でなくなるが、それでも衛生を保つには相応のケアが必要だ。登山客は山小屋が都市並みの衛生事情でないことくらい承知しているが、どこに触ってはいけないとか、危ないとかまでは当然知らないから、それを知るスタッフの方が貼り紙で注意喚起するなり、予め消毒して病原を絶つなりしておかねばならない。しかしこの宿はどちらもやっていない。非常に不衛生且つ危険な状態なのである。宇宙人はスタッフの方で丁寧な消毒をしてやるべきだと思い、そのための道具を注文したのである。安い品なのでオーナーが出費を渋るとも思えないし、食中毒を出してからでは遅い。
 だがクマは人語を解さないからか、別の解釈をしたらしい。どう聞いてもその一点が解雇の原因らしいのだ。宇宙人は記憶をたぐる。ははあ、この四日間、あまりの散らかりぶりに呆れた宇宙人があちこちを整理整頓してスッキリさせたのが気に障っていたのだな。自分の城をかき乱されたと思ったのだろう。しかし城の主だけにどこに何があるか判っても、バイト二人には判らないから、整理整頓して物を見つけやすくするのは道理ではないか。お蔭で作業効率上がったのだし。ははあ、そうやってバイトの方がテキパキできるようになると、自分の作業がのろいことが浮き彫りになるから、それを阻止したい思惑もあるのだな。
 算命学の性格診断のノリで人物を解析する宇宙人。この種の人間はたまにあるタイプだが、相手にしない方が賢明だ。理性でものを考えられないタイプである。この先つるんでも不愉快しかあるまい。即決する宇宙人。「判りました。オーナーに確認した後、梱包を始めます」とオーナーに電話する宇宙人。

 気の毒なオーナー夫人は仰天し、この解雇がクマの独断であることが知れる。おやおや、どうするオーナーよ。クマは激昂して撤回する雰囲気じゃないし、宇宙人ももう決断したから、あとはこの四日間の報酬額の交渉をあなたとするだけなのだが。夫人がクマと話がしたいと言うのでスマホをクマに渡すと、二言三言のやりとりでクマはスマホをブツリと切った。宇宙人がかけ直して夫人を呼び出すと、夫人は「クマさんはこうやって一方的に私の電話を切ることがよくあるの」と泣きながら言うではないか。おいおい、大丈夫かよ奥さん。あんたが雇い主じゃないのかね。しっかりしなさい。
 夫人は涙声で宇宙人を引き留める。「宇宙人さん、行かないで! あなたがいないと運営していけない!」その通りだと思う。夫人は常識人である。でもクマは常識人でないから、後顧の憂いを絶つためにもここで切り上げるのが妥当だろう。すると夫人は言う。「シニアさんは何て言ってるの? 宇宙人さんがいないとあの人だって困るでしょ」
 は? あのポンコツシニアには何の意見もないよ。責任取りたくなくて二言目には「わかりません」って言う人だよ。今さっきも私の真横に立ってたけど、カカシかと思うくらい存在感消してたよ。昨日のガス騒動を思い出してくれ。あいつは何もできないし、する気もない。小1くらいの精神年齢と判断能力だから、意見を聞くには及ばない。
 気の毒な夫人を宥めながら、バスの時間を気にかける宇宙人。荷造りの時間とジップラインで渡る時間、駐車場までの時間、ダムまでの時間、バス停までの時間を、最終バスの時間から逆算する宇宙人。来る時は半分車だったが、帰りは全部歩きだ。ギリギリだな。泣いて詫びる夫人を励まし、下山後掛け直すと約束して電話を切る宇宙人。どうする、真っ直ぐ帰宅するか。だが東京はまだ暑いぞ。もう一カ月を別の山小屋に? いや四日前までいた高原ホテルが人手不足ならそっちが早い。関係は悪くなかった。スターリンクが使えるここで打診しよう。荷造りしながら段取りを組み立てる宇宙人。こういう時の宇宙人の頭は通常よりも冴えてるくらいで、いくつものタスクを同時に脳内でシミュレーションするのであった。

 高原ホテルの回答は今夜か翌朝というので、この件は保留にして一旦松本へ出よう。当地には友人が暮らしている。昨晩なぜか思い出してメールでやりとりしたばかりだが、これは何か予感があったからなのか。高原ホテルが結果を出すまでのひと晩を松本で明かし、ダメだったら帰宅しよう。もしかしたら、これは神様が「今すぐ帰宅しろ」と言っているのかもしれない。大型台風も接近していることだし、こういうのは逆らわない方がいい。まだ山に登っていないが、今回は諦めて直ちにここを離れることを決断する。
 荷造り終了と共に友人にメールを一本送り、宿を後にする宇宙人。クマは4日分の食費を払えと言う。募集要項に一日700円とあったので承諾するが、実質は6日と2食だったので2600円が相応だと試しに言ってみると、4日分の2800円を払えと言う。たった200円で人格を落とすことを厭わぬクマに、邪悪な笑みを返す宇宙人。この4日間、ほぼ食事は米しか食ってないから、この700円はクマの歩荷代金だというわけだ。因みに米や燃料、ドリンク類は重いので歩荷せず、開山時にヘリで一括して空輸している。つまり歩荷代金にさえならない700円がクマは欲しいのだった。そんなに金欠なのだろうか。
 金欠と言えば、オーナー夫妻もそれほど裕福には見えなかった。にもかかわらず、今回の顛末ですっかりしょげてしまった夫人は、せめてもの補償だと言って短期間の報酬や交通費、果ては問題の食費の立替えまで、宇宙人に多めに払ってくれたのだった。何だか申し訳ない気分になる宇宙人。残ってあげたかったが、あのクマはダメだよ。オーナーの電話を一方的に切るようでは社会人失格だ。法的にも雇用主に対する背信行為に当たり、減俸など処罰されても文句は言えない。あんなのを雇い続けるより管理人を替えた方がいい。
 築60年の山宿は実にしっかりした造りで、まだまだ現役で使える。だがあの管理の仕方では寿命が早まるかもしれない。ゴミの捨て方とか、かなりやばかった。こうした内部実見談と、「成功する山小屋経営のノウハウ」でコンサルタント業もしている某山小屋オーナーに相談するよう助言を記した手紙を投函して、山宿すったもんだは終結したのであった。(つづく)

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土星の裏側note
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