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算命学余話 #U82「初年運を考える」/バックナンバー

 松井孝典教授の『コトの本質』によれば、戦後教育の失敗の根源には「人間が生まれつき我(自我)を持っているという間違った前提」があるといいます。生まれたばかりの赤ん坊は五感を通じて初めて接する外界に興味を寄せますが、この段階ではまだ赤ん坊に自我はなく、外界としての他者(人、モノ、自然)があるだけです。しかしこの他者が赤ん坊に笑いかけたりちょっかい出したり、或いは無視したりと五感に訴えることで、赤ん坊は反応して驚いたり喜んだりします。これが学びの始まりであり、ここには既に自分と他者、内と外の双方向の接触と反応があります。しかしこの段階ではまだ自我は備わってはいません。対象物の性質を実感して学習してはいても、それは反射的な反応にすぎません。
 自我とは「自分とは何だろう」という問いと同義であり、自分とは何かを知るためには相対的に他者と見比べることが必要です。他者をよく知ることにより、初めて自分が他者と違うことが認識される。だから人間は生まれつき自我を持っているのではなく、成長過程で徐々に自我を形成するのであり、その成長過程にはバリエーション豊かな他者の存在が不可欠だと、松井教授は説いています。
 現代の教育は「基本的人権の尊重」を重んじるせいか最初から自我があるという前提なので、自我の形成に本当に必要なバリエーション豊かな他者との接触・交流を軽視しており、結果的に狭くて乏しいフィールドで育つ子供ばかりになった。そんな子供や大人に意見を言えといっても自我がないのだから自分で考えた意見などあるはずもなく、無理やり答えさせるからどこかで聞いてきた他人の意見を鵜呑みにして、それがさも自分の意見かのように発言してしまう。それが考えることの苦手なアマチュアが幅を利かせている今日の日本社会の構図だというのです。実に厳しく穿った見解です。

 同様に戦後日本の平等主義も、現代社会の弊害となっているように思います。算命学を出すまでもなく、人間は平等ではありません。完全な平等を目指した旧ソ連では人々がやる気をなくして国家が破綻しました。人間はひとりひとり違うのであり、それが前提であるならそもそも平等ではないのです。現代の平等主義とは権利の平等のことであり、選挙権や争議権や自決権など現代に限った浅い歴史の制度の枠内にあるにすぎず、もっと根源的な人間の生態から見れば、個性を持つ人間は平等であるはずもなく、平等である必要もありません。
 昨今の憲法改正議論は専ら9条をどうするかを論じておりますが、戦後憲法の三原則を自我がまだ備わらないうちに義務教育で叩き込まれる子供たちを憂えるなら、平和主義と同時に基本的人権や平等主義についても、「憲法が論じているのはここからここまでの狭い範囲のみであり、根源的な人間を論じる場合には当てはまらないのだ。この問題は哲学の領域であり、人類は未だ明確な答えを得られず模索している最中なのだ」というスタンスを正直に打ち出すべきではないでしょうか。

 地球と地球外惑星を常に比較している松井教授のたとえによれば、人間がひとりひとり違うのはその経験が異なるからであり、経験とは外界との接触であるので、経験豊富な人とは外界との接触機会が豊富である人ということになります。その外界との接触機会が多いほど自分を比較投影する機会も増えますから、経験豊富な人は必然的に自我の確立も早く、しかも揺るぎない自我が形成され、従って他人からの借り物ではない自ら考えた意見を備えることとなります。
 算命学は陰占も陽占も本人の周囲に複数の人間関係を表しており、その全体像こそが宿命であるとしています。また陰陽五行の循環説は、惑星科学者である松井教授の主張する循環理論と極似しています(ニュアンスは若干違いますが)ので、算命学学習者には、一見分野の遠い松井教授の著作は大変参考になるのです。

 算命学の初級者がよく犯す間違いに、宿命を見ればその人の人生の全てが判ると思い込んでいる点がありますが、よく宿命(陰占・陽占)を見てもらえれば判るように、陰占では本人以外に人物要素は5つ、陽占では本人以外に人物要素は4つあり、双方とも親(先祖)、兄弟、友人、子供、配偶者を表しています。これらをひっくるめてその人の宿命であるのだから、一体どんな親を持ち、兄弟を持ち、子供を持ち、或いは持たず、どんな他人とめぐり会い、どんな影響を受けたのか、受けなかったのかで、宿命にある星々は異なる輝きを見せるのです。それが個性というものです。
 生年月日が同じであっても違った人格を形成して違った人生を歩むのは、実際の周囲の人間関係(外界)が違うからです。松井教授の説の通り、自我というものが外界との接触によって初めて形成されていくものであるように、宿命の中の本人も、どんな人間に囲まれて年月を過ごしてきたかによって、優れた人生にもなれば残念な人生にもなるのです。宿命の中の自分だけを見つめていても、正確な鑑定はできません。人間関係がどうして重要なのかがまだ判っていない若い人や、自分で考えずに他人の意見を借りてきて発言するような人にも、正確な鑑定はできません。算命学は理論が確立して既に数千年が経っていますが、今日を生きる我々が古代人の知恵を受け継いでいくには、我々が現在体験しているリアルな外界と自分との関係が、数千年前の人々がたどった道のりの追体験の1つであることを理解しなければなりません。彼らの技術だけ習得しようとしても無理です。そんな技術は借り物にすぎず、そこには鑑定者の自我も、自分で考え納得した意見もありません。

 前回の余話は、癸が終焉を司る理屈について取り上げてみましたが、終焉があれば始まりもあります。今回は陽占の星を回した時に止まる止星(しせい)にスポットを当て、初年運について考えてみます。止星については余話No.8、No.9に、三分法についてはNo.65に解説があるので、ご参考下さい。

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