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ポチにならぬための文学、倫理、知性

 巷では財務省の解体を叫ぶデモがネットニュースを賑わしているそうだが、テレビ・新聞らオールドメディアは全く報じていない。先日亡くなった森永卓郎氏が臨終間際に書き殴った『ザイム真理教』はじめ、財務省を厳しく批判したメガヒット書籍の効果だろうか。余命宣告を受けた人間の言葉にはもはや損得勘定が働かないから、その分鬼気迫る威力がある。しかしオールドメディアは財務省のポチなので飼い主を批判できない。政治家はオールドメディアのポチなので、NHKの「ラーメン屋さんに遠く及ばぬサービス」に対してもフジテレビの下品な社内習慣に対しても、厳しい姿勢が取れない。
 子供たちよ、誰かのポチになるな。独立自尊で頼むよ。そういえば独立自尊を校風として掲げる慶応義塾大学が、文学部の小論文の問題にロシア文学に係るテーマを出して称賛されている。わが尊敬する沼野充義教授が昔書いた論考「それは君が何をどう読むかだ――地図のない〈世界文学〉の沃野に向けて」の一部から出題したもので、「人間にとって文学を読むとはどのようなことか」を問うものだ。おお、素晴らしいお題ではないか。やるな、慶大。

 数年前には「日本の大学に文学部は必要ない」などという暴論を吐く公人が出て、ロシア文学のみならず文学界全体から軽蔑まじりの非難が飛んだが、当の大学側が文学部を守るためにこれといった発言も運動もしなかったのは、こんな暴論を吐く人間の知性の低さは自ずと国民に知れようと、日本国民の民度の高さを頼みにしていたからかもしれない。しかし今回の受験の出題はそれより一歩も二歩も踏み出した感がある。「この問題に対して中身のある意見を述べられない受験生はウチの大学には入れないよ」と、ハードルを上げてきた。受験勉強に明け暮れて青春を過ごした多くの受験生に、ロシア文学を読む余裕と意欲があったとは思えないが、正解のある問題を解くことよりも正解が見つかっていない問題に取り組むことの方が難しく、レベルが上で、より人間性を鍛え高めるものだということは、大学に入る前に価値基準として持っておくべきだろう。でないとお勉強が得意なだけのへなちょこ秀才ばかりが有名大卒の肩書をひけらかし、その結果「学歴の高い奴はバカだ」という誤った認識が世間に広まってしまう。今がまさにそういう時代ではないか。学歴秀才の時代はもう終わりにしよう。本当に頭の良い人が大学に行って、正解のない問題にまじめに取り組み、それが社会全体の幸福に役立つように。その一歩を慶大文学部がやってくれたと、宇宙人は頼もしく思っている。

 ところで算命学では、知性や知恵というものを、道徳や倫理、品位や高潔、哲学や宗教と同じ括りだと考えている。共通点は「福祉」つまり「人間の幸福」を目指すものというところ。「自分の幸福」や「家族の幸福」「一族の幸福」「勤める会社の幸福」ではなく、自分の属する社会全体の幸福を目指すものが知性だというわけだ。
 優れた文学作品には、そういう知性について、未だ人類が見つけられない正解を探るための考察が書かれている。日本の文学作品にはそんなお題目を正面切って取り上げるものは少ないが、ロシア文学は200年前からこれに真っ向勝負を仕掛けている。だから未だに世界文学の先頭を走っているし、慶大の受験問題になって称賛もされるし、宇宙人は高校生の頃から読み続けている。そして有難いことに「土星の裏側」の閲覧者もこれを目当てにしている人が多い。しかし残念ながら、知性つまり「印」を重視して生きる人間は少数派で、多くても五人に一人か、集団によってはもっとずっと少ない希少種であることは、算命学の認めるところである。

 先の都知事選で品位を著しく欠く選挙ポスターが公道に貼り出された事件は、法に触れなくとも誰の目にも不快であった。人間が作った法律は、人間が生まれた時から持っている道義的倫理観より下であることがここでもはっきりした。昨日、「品位を損なう選挙ポスターを禁じる」公職選挙法改正案が衆議院に提出されたが、結局こうやって法律で禁じないと今の人間社会は悪い事を悪い事だとはっきり糾弾できないのだった。そのことに渋い顔をする宇宙人。下品なポスターを禁じるよりも、人間が下品なまねをするのを罰する法律「下品罪」を作る方が先決だし、本当はそんな法律など作らなくとも誰もが下品な行為を慎み、下品な行為を見掛けたらその場で糾弾するのが正しいという社会習慣を作った方が「正解」に近いと宇宙人は思うのだが、皆さんはどうですか。受験生の皆さんはどうですか。350字以内で小論文にまとめる訓練に、このテーマを使ってくれなのだ。

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土星の裏側note
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