手作りが最高級品になる時代
芸術の秋の話題から。まずは落合陽一展「昼夜の相代も神仏 鮨ヌル∴鰻ドラゴン」に行ってきた。落合氏は各分野で人気だし入場無料というからさぞかし混んでいるかと思いきや、入口が鮨屋の体裁なので店舗と見分けにくく、中はガラガラであった。出入口も鮨コーナーと鰻コーナーで別々なので、常にない不思議な会場。中身はというと、一年程前に落合氏がインタビューに応えて「自分はいまヌルヌルしたものに興味を惹かれている」と言っていたが、その興味と思索を展示物に具現化するとこうなる、という内容であった。定型のない現代アート、という括りになるのかな。古典好きで現代アートに疎い宇宙人は、「ヌルヌルした」動画や造形物にインパクトは受けたが感銘を受けるという程ではなかった。しかし以前土星裏でも取り上げたテーマとして「自己組織化」と「自然崩壊(≒カオス)」、或いはハイパーソニック・エフェクトにかかる調和と適応、崩壊・淘汰に通底するものは感じることができた。いま世界はこういう事象について考える時期に至っているということなのだろう。
奇しくも哲学の世界では、新しい概念として「プロセスの存在論」というのが論じられているそうである。宇宙人が学生の頃は「実体の存在論」とか「実存主義」とかが大学で語られていたが、いまや実体などというものはあやふやな時代に突入している。例えば物理の世界では、以前は原子が物質の最小単位として揺るがぬ地位を築いていたが、今はその原子を更に細分化した素粒子の存在が知られ、しかもその素粒子は「ヒモ」のようにゆらゆら揺らめいて存在しており、カキッとした不動の実体というものがない。物理の最小単位は流動的なものだったのだ。
また「1か0か」で計算していたスーパーコンピュータも限界を迎え、今は「1でも2でもある」量子コンピュータの時代である。こうした境界の曖昧さは各分野で同時発生的に確認・発見され、この世をカテゴライズする哲学の世界では、もはや物事に実体などはない、あるのは曖昧な境界を挟んで変容するプロセスだけだ、という結論に達し、それを突き詰める作業に入っているらしい。それが「プロセスの存在論」というわけだ。
なるほど。やっと仏教の「諸行無常」に世間が追いついたか。西洋哲学は遅れてるわねえ。そういえば落合陽一氏も仏教に造詣が深いというか、以前から強い関心を示している。目の付け所がよろしいのだ。展示は東京建物ビル1階BAG-Brillia Art Galleryで10月27日(日)まで。
昨今の世間は生成AIの進化をもてはやし、今後労働はAIに何でもやってもらって人間は働かなくても済むようになる、とりあえず大手企業は週休三日にしよう、人手不足は機械化・自動化で解消だ、みたいな能天気な明るい未来を思い描く人もいれば、AIのせいで失業者が激増する、いや結局人間でしかできない仕事は残ってそれは肉体労働の類でキツイものばかりだから、ブルーカラーとホワイトカラーの労働及び経済格差が益々広がるだけだ、と暗澹たる未来を語る人もいる。いずれもAIが人間に取って代わるという前提の話である。
そんな中、近頃リユース着物に興味を惹かれて、その一点ものの多彩なデザインをアートとして鑑賞する喜びを知った宇宙人は、着物の世界ではもうかなり前から高級品の逆転現象が起きていると聞かされた。
例えば紬(つむぎ)。宇宙人は同好サークルでほぼ未使用の紬を手に入れ悦に入っているが、紬はその昔、蚕の繭から絹糸を生産する過程で不良品としてはじかれた繭を、生産農家が捨てずに取っておき、自分用に糸を紡いで着物に仕立てたいわばB級品であった。その証拠に紬は一般的な絹のようなツルツルではなくボツボツとした凹凸があり、手触りもざっくりしているから正装には使えない。宇宙人の紬も気楽に着て出掛ける目的で入手したものだ。
しかし今日紬はすっかり高級品である。なぜなら不良品の繭は富岡製糸場のような紡績機械にかけられない難物で、農家の熟練工が手作業で丁寧に紡がないと糸にならないからだ。手作業では膨大な時間がかかる。その労働時間を価格に転嫁すると当然高くなる。いっそA級品の絹織物の方が機械でササッとできるから安上がりなくらいだ。ではそんな手間のかかるB級品材料の不良品繭はいっそ捨ててしまえばいいのか? そういう発想だと物事に価値は生じない。
着物の知識の乏しい宇宙人は、更にワラビを織り込んだ超絶高級着物の存在を知るに至る。ワラビだったかな、ゼンマイだったかな、あの山菜として食べる用でしかお目にかかれない植物の、ふわふわした産毛を糸に混ぜた織物というものがあるのだが、これも紬同様、高級品の着られなかった農家が衣服の足しにするためワラビの産毛で嵩増しした糸で織ったのが発祥だ。しかし手間暇が掛かり過ぎるため廃れ、現在作れる職人はほんの僅か。その稀少性から値段が上がり、今や幻の高級品となっているという。
先日、滅多にお目にかかれないその実物を見せてもらった。白地に小さな茶色いポツポツがあり、それがワラビの部分だという。この茶色をゴミと取るか貴重な風合いと取るかで、価値が違ってくるわけだ。クルクル巻いたワラビに生えるケバをいちいちむしる作業や、それを均一に糸に折り込む手間暇は、機械化には向かない。手先の器用な人の熟練を要する。そもそも材料からして大量生産できない。すると物の溢れた現代では価値が上がる。珍しいものが高くなる。もちろん天然の風合いという素朴な美しさも価値になる。今時の価値基準ではエコという括りになるのかもしれないが、この基準は早晩トレンドを過ぎる気がするので、ワラビも紬もこれと一緒くたにはしないでおこう。共倒れしてはたまらん。人間と共に歩んだ歴史が深いのだから。
かように価値の逆転があちこちで見受けられる現代なので、今もてはやされているAIも、人口に膾炙するにつれて安価に堕していくのだろうと宇宙人は推測する。人間が手間暇かけて作ったもの、それも本来は金儲けが目的ではなく素朴な充足が目的だったものが、息長く価値を保つ、という社会の方が宇宙人は好ましく感じるのだが、皆さんはどうですか。とりあえず宇宙人はリユースの紬を着て、伝統芸能である能や琵琶の舞台に上がってみるよ。