音楽と数で宇宙を考察
能を習っていると、例えば落合陽一展の「鰻ドラゴン」コーナーで掛かっていたBGMが能『竹生島』のキリだとすぐに判ったりする。『竹生島』は龍神が出てくる話なので、蛇だか龍だかが巻き付いた展示オブジェに迫力を添える音源として採用されたらしい。しかも『竹生島』は強吟で、現代人に耳慣れたドレミファ音階ではなく、無調性の唸るウタ。あの世や神仙界と交信するにはその辺のありきたりな音楽では次元が届かないので、こうした音叉系音源が選ばれたようだ。落合陽一、なかなかやるな。…といった楽しみ方ができるようになるよ。
なに、あの世や神仙界と交信する必要などないだとう? そんな乾いた価値観の持ち主は土星の裏側になど訪ねて来ないでくれ給え。「能のシテが扇をかざすように音叉をかざして星空に向き合えば、UFOがやってくるかもしれない」くらいの心の余裕のある閲覧者が憩う場所なのだから。そんな余裕の読者のためにおススメ図書を紹介しよう。桜井進・坂口博樹著『音楽と数学の交差』。2011年の出版だが、この両名は最近新刊本を出しているのでそちらの方が手に入りやすいかもしれない。とりあえず宇宙人は古い方を読了した。ハイパーソニック・エフェクト楽器として琵琶を始めたくらいだから、音楽の本質については関心がある。例によって宇宙人の瞠目ポイントを抜き出しておくから、興味が湧いてお時間にも余裕のある方は是非全編をお読み下さい。※印は宇宙人のひとり言。
――6音音階で正6角形となる全音音階は音程関係が完全に均等で、どの音が中心音になっても安定度が高くありません。5音階、7音階の安定性は、5、7という素数により得られていると考えられます。5は独立して存在する初めての素数。7は一桁の数で最も大きい素数です。――
(※人類はまだ素数についていくらも知悉していないが、人の世の音楽は5音階と7音階が殆どで、人はそれを美しいと感じている。6や12といった偶数で均等に割り切ると、音楽は調和を失う、という話。宇宙人の頭のミニねじれの一つがポンとほどけた。)
――古代ギリシャ人は、音楽には3つの種類があると考えた。それは「宇宙の音楽」、「人間の音楽」「器具の音楽」です。第一のものは天空の調和そのもので、星々は素晴らしい音楽を奏でているはずだと考えたのです。第二は人間の魂や肉体の調和を表すもので、人間の心身もムジカ(=音楽)の根本原理によって成り立っていると考えました。第三が実際の音楽なのです。そして「器具」と訳されてはいますが、「インストルメンターリス」には音も含まれます。つまり第一と第二の音楽は実際には人間の耳には聞こえないもの、音楽として人間が聞くことができるのは第三の音楽のみなのです。…古代ギリシャでは数論(算術)、音楽、幾何学、天文学が数学の4大教科でした。音楽も数学の中の1科目だったのです。その音楽は数の比を扱う分野で、美しい音楽は調和のとれた音の比によって成り立っているとされ、それこそが美の原点と考えられた。――
――音楽の基本を数の比とする考え方は、(古代ギリシャから)ペルシャ、アラブ、北インドにも伝わっています。それらの地域の音楽では非常に精緻な数の比を駆使することによって、大変多くの種類の音階が考えられ、実際にも使われています。――
――比は英語でratioですからrational numberを直訳すれば「比的な数」または「有比数」とでも訳すべき言葉でしょう。ところが日本語では「有理数」と訳され、(判りにくくなった)。またratioにはもともと「計算する」という意味もあり、そこからrationalには「合理的な」という意味が備わっています。ここから考えると、音楽で比を考えることはまさに合理的な思考そのものだったと言えます。――
――ピタゴラスたちは「音」の本質が振動であることを理解したとき、同時に単純な比ほど美しい響きを奏でると感じたのでした。単純な比であるほど音同士はよく協和します。そこでは人が耳で聞くことのできる振動数だけでなく、天空の星々も美しい音楽を奏でながら運行していると考えた。近代人は真空の宇宙空間には音は鳴らず、それは古代人のばかげた空想だと考えましたが、現代科学は、宇宙には沢山の波動が満ちていることを教えてくれています。光や電波などの短い波動はすでに観測されていますが、宇宙空間レベルの長い波長、星の回転運動が発するような重力波をとらえることができれば、低い振動の星々のメロディーとハーモニーが聴けるようになるかもしれません。――
(※宇宙人が習っている能や琵琶の奏でる音楽は、こうした宇宙空間に通ずる種類の音楽ではないかと思えてきた。稽古を始めた時はそういう意識はなかったのだが。)
――人の心の内側には、もう一つの宇宙があり、それは人の外側に果てしなく広がる時空としての「外なる宇宙」と呼応しており、その反映でもあるように思えます。そして、優れた音楽を聴くと、その音世界は、この心の「内なる宇宙」を具現化しているように感じられ(無意識であったとしても)、そこから心が打ち震えるような感動を覚えるのです。音楽は表層心理だけでなく、深層心理にまで深く入り込み、その抽象世界を何かに置き換えるのでなく、音として直接表現することができます。つまり音楽もまた、宇宙になり得るのです。――
――真空の相転移によって物質は、物質(粒子)と反物質(反粒子)という同じ性質で電荷の反対な二つに対生成すると言われます。このままだと粒子と反粒子は衝突して光を発しエネルギーとなり対消滅してしまいます。しかしほんのわずかに反物質より物質が多くなったことで対称性が崩れ、(対消滅せず現在の宇宙が形成された)。この可能性を予言したのが、2008年にノーベル賞を受賞した小林誠、益川敏英両氏による小林・益川理論です。…このほんのわずかな差によって(対消滅から逃れることで)生き残った物質からこの宇宙は生まれました。この「外なる宇宙」の原理はその中に内在する小宇宙にも反映されています。人の心の「内なる宇宙」も対称性を根本としつつも、その破れにより深い広がりを持つ豊かな精神世界を築いているようです。そもそも脳は、右脳と左脳という完全な対称性を持ちながら、その役割では対称性が破れて進化してきました。しかし対称性が破れすぎると、精神はバランスを保てません。音楽という宇宙も同じです。対称性を根源に持ちつつも、その破れにより豊かな多面性が展開されます。対称性の破れ方こそ、美の根本問題でもあるのです。――
(※前回の記事で、「不安も不満もない平坦な人生など味気ない。そんな人生を送っていると認知症まっしぐらだ」といった話をしたが、宇宙物理学の世界でも似たようなことを言ってくれていて嬉しい。)
――小泉文夫が言ったように「音楽というのは、結局何かのためや、何かを表現する手段であったりするものではなく本来人間の存在そのものであり、「うたう」ということや「踊る」ということこそ「生きる」というのと同じ意味なのだ…(略)」とすれば、人は幸福な音楽体験によって宇宙と同化する感覚を得ることができてよいはずです。――
(※実は宇宙人は、今も昔も表現手段としての音楽や踊りが好きでない。人がやっているのを「見せられる」のも自分が「見せる」のも嫌いなのだ。そこにある下心やわざとらしさが。いや、一流ならいいのよ。感心も感動もするよ。でもそんな結構な腕前ではないもの、幼少時は幼稚園のお遊戯から体育の授業のダンス、アイドルや演歌歌手が歌うテレビ番組を観るのさえ、何か居心地の悪い羞恥を感じずにはいられなかった。それは心の自然な発露としての音楽や踊りではなく、人に指示されて「やらされている」感が拭えなかったからなのだろう。まあ実際に好きでやっている人もいただろうが、算命学的にはそういう人は人口の1/5ということだから、4/5は納得していないのでは。まあ宇宙人には表現星がないから、表現することで生じる喜びというものがもともと希薄ではある。ピアノや能や琵琶をやっているのは、どこかで誰かに向かって見せるためではなく、個人的に楽しいからやっているので、正直練習している最中が一番楽しいのであった。え、ではなぜ発表会の類に参加するのか? それは楽屋裏で見聞きする裏話が面白いからだよ。オフレコ指示が出てここには書けない異常なネタは沢山あるのだよ。ついでに土星裏に書き散らすのは表現ではないのかと言えば、これは脳の整理整頓や健康体操みたいなものなのだ。)
――インドの音楽家で、スーフィー伝道者でもあったハズラト・イナーヤト・ハーンは「一般に私たちが音楽と呼んでいるものは、あらゆる物事の背後で働いている、自然界の根源にして起源である宇宙の調和、すなわち宇宙の音楽から、知性が掴み取った小さな縮図にほかなりません」と言います。――
(※宇宙人は数年前にインドで開催されたスーフィー音楽祭を観に行った。スーフィーとはイスラム神秘主義と訳される思想や集団のこと。一般にイスラム教は音楽の享楽性が人間を堕落させるとして音楽を禁じる傾向が強いが、実はもっと本質的なところをイスラムの音楽は見つめていたのでは。そう思って音楽祭に行ってみたのだよ。実に非現実的な空間体験であった。何せ現役マハラジャ主宰の、博物館クラスの城址に宿泊してのイベントだったのだ。また行く機会があるなら、今度は琵琶を持参して参加したいものだ。)
――実際のところピッチを微妙に変えられる楽器の演奏家(管楽器、フレットのない弦楽器など)や歌手は、いくつかの音律の間を柔軟に感覚的に行き来しているのです。ですから本当の音楽の中では、数値で決定できる音程というものはありません。あくまで感性が支えるものであり、それがまた真の音楽らしさでもあるわけです。――
――古来、中国の音楽理論は「楽律」と呼ばれていました。…司馬遷の『史記』には「楽書」と「律書」の章があり、この2章は「令書」と「暦書」の間に挟まれており、「楽律」が礼と暦という大変重要な事項と深い関係にあることを示しています。…中国の五声音階は「宮・商・角・徴・羽」と呼ばれ、洋楽の「ドレミソラ」に相当します。更に変徴・変宮を加えると「ドレミファ♯ソラシ」の七音音階になります。…五声は宇宙の万物と関連づけられ、木火土金水の五行や東西南北・中央の五方向、五臓など…――
――多くの数学者は素数から音楽を聴くと言います。つまり素数の並びからメロディーとリズムを感じるというのです。古代より人間は、宇宙を具現化する表現として音楽を作ってきました。音楽の神秘は人間の神秘であり、宇宙の神秘でもあるのです。そして素数には、宇宙の神秘の根源が隠されていたのでした。――
――今の時代の閉じた音楽を開くためには、音楽という時間を共有する場が閉じていてはどうしようもありません。現代社会ではほとんどの場合、大きな会場のコンサートであろうと、小さなライブだろうと、iPodだろうと、音楽を聴くことは個人的な内向きの行為となっています。生であろうと録音であろうと、音楽を受動的に受け入れるだけでは、ますます閉じていくばかりです。…音楽に対し安住しない、常に疑問を持ち続ける。作り手も受け手もそれを共有する、そういう場と、それをつなぐネットワークが求められているのではないか。――
――アナログのレコードとCDではどちらがいいのかという議論がずっとなされていますが、それは数学と物理学で説明できます。(その説明のあと)…アナログの音が究極の音なのです。CDは録音した音を分割し、分割された個々の隙間を埋めて音を正確に表現しようと動いているが、アナログレコードの原理はマイクから録った音の波形をそのままカッティングするので、レコードの方が原音に近いのです。だから究極で、圧倒的な差がある。レコードの方がそのぐらい情報量が多いとも言えます。CDは情報量を削っているから、あんなに小さく安くなっているのです。…レコードの方が情報量が多いということは、iPadなどの電子書籍より本の方が情報量が多いということにもなる。触れるし、紙はインクのにおいがします。見開きの情報量は格段の差で多いし、索引のスピードも格段の差です。…本にかかわる情報空間がiPadよりはるかに多い。――
(※…だそうですよ、皆さん。宇宙人は本は紙派である。デジタルは目が疲れる。「土星の裏側」も紙の本にしたら欲しがる人いるのかなー。)
――進化は抵抗です。…生物というのはある種の整った物質の系を創り出しており、その整いが崩れてしまうと死に至る。もし放っておいても整っていくのなら、勉強する必要もないし、生物も進化しようといろいろ画策する必要もないわけです。エントロピーが増大する、どんどん世の中というのはバラバラになって混沌状態になっていく状態だからこそ、それに抵抗しようとして生物が生まれる。つまりそもそも人間は宇宙を作るために存在することになったかもしれないということですね。…リズムをずっと持続させるということはものすごくエントロピーの増大に対して抵抗している。放っておいたらリズムは崩れていくはずなのです。それをすごいエネルギーで、大きい音で、グルーブするリズムでずーっとやっているということ(=ライブのこと)は、それ自体がものすごくエントロピーに抵抗している。それは音楽の本質で、エントロピーに抵抗しているということは、まさに生物が生きるということであり、時間を作り出しているということです。リズムというのはその象徴なのです。――
――初期の人間にとって「内なる音」の方が「数」に比べてプリミティブな存在だったのでしょうか。近年、認知心理学の研究から人間が数を認識するメカニズムがわかってきました。いわゆる「数覚」と言われる興味深い仕組みです。数も音と同じように身体に標準装備されたものだったというのです。――
(※数字の謎については以前「土星の裏側」でも取り上げた。例えば人間が一瞬で目視し数えられる数は4つか5つが限界であるとか、ロシア語では単数形は1のみだが、複数形は2~4までと5以上で扱いが別になり、それは目視で数えられる数の影響では、といった話。読み返してみてくれなのだ。)