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両義性と循環と私

前提

私は実在を疑っています。

その後の読書によって、実在でも観念でもない、関係でとらえるという認識と分析手法を示され、思索の進め方の示唆を得ました。

両義性と循環

社会と個人を関係の網として捉えると、諸構造の両義性と循環が見えてくるように思います。

例えば、人が貨幣に価値を感じるから交換が生まれ、交換が生まれるから人は貨幣に価値を感じる。王が税として徴収したからと歴史学は説明しますが、王が価値を認めるまでのプロセスは不明です。どこかの誰かが貝殻をきれいだなと思って拾ったのが始まりかもしれませんが、ではどうしてその誰かが貝殻をきれいだと思ったのかは説明できません。貝や麦がいつから貨幣になったかとみなすかという考え方の場合は、定義の仕方の問題にすぎなくなります。このような循環がどこから始まったのか解くことは不可能でしょう。鶏と卵のどちらが先かという因果性のジレンマです。

このように思索を進めて気付いたのは、そもそも言語の持つ両義性と循環性です。言語には必ず否定の文法があり、何かを肯定するときには同時に否定の可能性が生まれる。言語を用いる思考には必ず対の概念がある。

こうして、存在論の結論を得たような気がしました。存在は無があるから考えることができる。無も存在があるから考えることができる。

存在か無かどちらなのかに内在的な理由などなく、ただ私が存在すると思ったから存在する。無いと思ったから無い。理由はいくらでも作れますが、本来はトートロジーだと思います。

そして、私が後から理由を捏造しようとしない、やりたいからやるというトートロジーを伴う行為こそ、私の真の望みなのだろうと気付きました。

感謝

このような根底を揺るがす思索を経て、私に生まれたのは感謝でした。

<私>に意志はなくても、<私>は生きたいと思えている。無意識が生きたいと出力している。

<私>が自己に溶けていく感覚<私>を自己から切り離して自己が他者との「関係」として捉える感覚

<私>に意志がないからこそ、束縛もない。

この「空」の認識に至らせてもらえた周囲への感謝です。これまで<私>を生み出し続けてきた無意識へのインプットの全てに。これまでの思索とその素材となった情報の全てに。

これからも私は思索を続けます。

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