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Non-judgmental approach④「あけわたしの法則」へなちょこスートラ

天外さんの本に出合って以降、約10年の間、前半は普通の瞑想、後半はスートラ瞑想+その他のワークをしてきた。

天外さんは、本で詳しく瞑想のやり方を書いてくれているが、私の場合は、めっちゃ適当で、だから続いていると思う。疲れていたら、寝転んで瞑想したり、酒の飲みながら瞑想したり…。
特にスートラ瞑想はあまり眠くならないけど、飽きてくるので、つい、酒のグラスを傍らに置いたりする。
 
天外さんは複数のスートラを公開されているが、「あけわたしの法則」の中で、「へなちょこスートラ」を載せている。
 
このスートラに対して一人の塾生が、「こんなの唱えていると、そのまま自分がへなちょこになってしまう」ということを言ったそうな。
 
このへなちょこスートラの中に、「卑怯者でもいい」という一節がある。
私も「卑怯者だけは絶対にだめ!」思って生きていたので、天外さんの本に出合う前なら、この塾生のように思ったかもしれない。
いや、この塾生は自己否定・克服型だろうから、自己否定・完全逃避型の私は、「えっ、卑怯者でもええの!」とホッとしたかもしれない。
仮定の話で意味ないけど。

天外ワーク歴10年の今ならわかる。
「卑怯者でもいい」というスートラを唱えたからといって、自分が現実世界で「卑怯者として生きていく」という風にはならない。
瞑想って、自分の内側の世界に潜っていく作業なので、繰り返すことによって、自分の内側が緩んでくる。内側のなにかが緩んでくるのだ。
 
「卑怯者」というレッテルも「うそつき」と同じで、これまで一度も卑怯なことをしなかった人などいないだろう。でも私は自分は絶対に卑怯者だけにはならない、と固く信じて生きてきた。でも冷静に自分を振り返ると、卑怯者であったことはたくさんあった。

瞑想によって、なぜ私がこの信念をもったかもわかった。

私が子供の時、台風か豪雨かなにかで、近隣の川が溢れそうになった。
警察だか消防だかが家に来て、父に、堤防に土嚢を積むのを手伝えと言ってきた。父は、雨合羽を持っていないし、なんのかんのと理由をつけて断っていた。
この一件で「父は卑怯者」が私の中で決定的になった。その後も世間体ばかり気にして、母や私や兄を蔑ろにするなど、父の評価はどんどん下がっていった。

父に対しても、自分に対しても、刃物を突き付けるように、厳しいジャッジをするようになった私。

私の中に怒りがあったのはなんとなく感じていたけど、瞑想やワークで、より鮮明に自分の中に怒りがたまっていたのが実感できるようになってきた。
 

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