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八幡神を知れば歴史がわかる③宇佐神宮託宣事件

前回は聖武の八幡神の入京(奈良)させ、仏教と八幡神を融合させることで民衆仏教として大仏の建設を達成。
更には娘である孝謙(称徳)天皇が覚醒して、法都建設を継承してくれたところをみてきました。

今日はそこから宇佐神宮託宣事件にいきます。

道鏡を天皇にする構想はあったのか?

765年称徳天皇として践祚した際の称徳天皇の年齢は47歳でした。
道鏡は同じく65歳。

現在に換算するとかなりの高齢だったことでしょう。
法都構想を継続することになりましたが、何せ高齢であり、称徳天皇は女性天皇であります。つまり結婚や出産をできません。

なので後継者がいないわけです。
つまり自分でやりきらないといけないわけでした。。。従来の慣習に従えば

ところがどっこい!
結婚もできない子供も産めない我が子(称徳天皇)に好きなようにやりなさいという帝王学(?)を授けた聖武天皇もびっくりするようなすごいことを構想してしまうのです。

それが「道鏡を天皇にする」という構想でした。

ここに関しては皆さまどう思いますか?

・肯定(事実)派 ・・・井沢元彦
・否定派・・・加治将一

などです。

私は元々否定派だったんですが、宇佐神宮との結びつきを考えたときに事実ではないか?と思うようになりました。


宇佐神宮託宣事件とは

宇佐神宮託宣事件(うさじんぐうたくせんじけん)は、奈良時代の日本で発生した重要な宗教・政治事件です。この事件は、神道と朝廷の政治権力が絡んだ複雑な問題を浮き彫りにしました。以下に、事件の背景、経過、及び影響について詳しく説明します。

### 背景

奈良時代の日本は、中央集権的な律令国家体制が確立されつつあり、天皇を中心とした政治が行われていました。この時期、藤原氏や他の有力貴族たちが政権を巡って争っていました。また、神道は政治に大きな影響を与えており、神託や占いが政治決定に用いられることも珍しくありませんでした。

宇佐神宮(現在の大分県宇佐市にある神社)は、八幡神(応神天皇を神格化した神)を祀る重要な神社であり、朝廷とも深い関わりがありました。

### 事件の経過

757年、称徳天皇(孝謙天皇としても知られる)が即位すると、政権内で藤原仲麻呂(恵美押勝)と称徳天皇の寵臣である道鏡との間で権力争いが激化しました。

769年、道鏡が宇佐神宮の託宣を利用して、自身が次期天皇に即位するべきであるとの神託があったと主張しました。この託宣が事実であれば、道鏡は天皇に即位する可能性がありました。

### 事件の展開と結末

この託宣に対し、和気清麻呂という人物が調査に派遣されました。彼は宇佐神宮での託宣が偽りであることを報告しました。この報告により、道鏡の天皇即位計画は頓挫し、道鏡は失脚しました。

和気清麻呂はこの功績により、後に高位の官職に就きました。一方、道鏡は失脚後、下野(現在の栃木県)に左遷され、その後、政治の表舞台から姿を消しました。

### 影響

宇佐神宮託宣事件は、神道と政治の結びつきの危険性を示した重要な事件として歴史に刻まれました。また、和気清麻呂の活躍は、朝廷内での正義と忠誠心の象徴として語り継がれるようになりました。

この事件を通じて、朝廷は神託の利用に対してより慎重な姿勢を取るようになり、宗教と政治の関係が見直されるきっかけとなりました。

ChatGPT

早い話が宇佐神宮に「道鏡を天皇にしなさい」という託宣がきたので、称徳天皇は和気清麻呂の姉を宇佐神宮に派遣しようとします。しかし、実際いったのは和気清麻呂。
そして、和気清麻呂は宇佐神宮の託宣は「道鏡を天皇にしてはならない」と言っていますと報告。
和気清麻呂は称徳天皇には嫌われましたが、皇統を守った英雄というのが現在の評価です。

疑問①なぜ、称徳天皇は託宣を確かめようと思ったのか
道鏡を天皇にしたいのであれば、託宣をそのまま受け止めてそれに従えばいいだけの話です。なぜ人を派遣しようとしたのか?
これは和気清麻呂を登場させるためのストーリーではないでしょうか?
そして和気清麻呂を和気汚麻呂と呼ぶなどしたとして称徳天皇の評価を下げるという効果がある。

疑問②和気清麻呂はなぜ勝手に行ったのか?
依頼されたのは姉でした。しかし清麻呂は勝手にいきました。
まぁこれも①と同じですが、藤原氏側の作ったストーリーだと思います。

疑問③なぜ宇佐神宮は託宣を変えたのか
「道鏡を天皇にせよ」⇨「道鏡を天皇にしてはならない」と変わりました。
しかし、宇佐八幡の流れを知っていればそんなことはありえないということになります。

元々、宇佐神宮(八幡神)と聖武天皇は蜜月です。
そして聖武天皇の後継者として称徳天皇がいて、法都構想における「法王」として道鏡がいるという展開。

聖武天皇よりも称徳天皇の代になって法都構想が現実的になっている感じです。

ここで称徳天皇としては自分の後継者がいない以外は問題がない状態だったわけです。
そして、後継者として選んだのが同志である「法王」道鏡だった。という流れです。

宇佐神宮と称徳天皇は蜜月。託宣なんか必要がないわけです。(繰り返しますが自由にしろと育てられてますw)

なので託宣事件事態は私は藤原氏のデッチ上げだと思っています。

そしてここから宇佐神宮の没落が始まります。

宇佐神宮の没落

そして託宣事件(769年)の1年後、称徳天皇が亡くなります。53歳です。
そして後を追うように道鏡も亡くなります。70歳です。

当時の平均寿命を想像してもそんなもんだろうと思いがちですが、私には暗殺としか思えません。

そしてこのあと、宇佐神宮はシャーマンの氏族が入れ替わります。
そして以後、託宣を禁止されます。
そして八幡神自体が宇佐から追い出されます。追い出された先は伊予国宇和領となっており、それが今の八幡浜市にあたるのではないか?と個人的に想像してます。
豊前と八幡浜は向かい合わせ、今もフェリーが就航しています。

聖武天皇と称徳天皇によって作られた宇佐神宮(八幡神)の繁栄はわずかで終わってしまいます。

神様を追い出すことなんてできるの?そう思った人は鋭いです。
できちゃうんです、皇帝の手にかかれば、、

台頭する石清水八幡宮

ここから台頭してくるのが石清水八幡宮です。
宇佐は天皇家がもろに関わっているので触れられない。
そこで託宣事件をでっち上げて宇佐神宮を格下げし、藤原氏が主導する形で石清水八幡宮が繁栄していくのです。

そして今日の八幡神社の多さは藤原氏によるのもあるでしょう。
そして免税の点でも大きいと思われます。
讃岐国二の宮である大水上神社の宮司さんによると宇佐系の八幡神社の租税はそのままだったそうですが、石清水系の八幡神社の租税は1/10に抑えられていたそうです。

そして宇佐神宮は元来は
祭神として
・聖武天皇がトップ
・比売神が次点
だった。

しかし、この託宣事件などの一連の流れで神功皇后と誉田別命(神功皇后の子・応神天皇)を主祭神としていくようになります。

神功皇后が祀られるようになった理由としては1番最初に出た対新羅に対する要素が大きいようです。
新羅から流れ込んでくる移民対策や海賊対策がそれにあたります。

これにて宇佐八幡の歴史は大まかに終わった感じですが、悲劇はまだまだ続きます。

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