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異想随筆集2「粘水」


 水を持参するのを忘れたので、ひとまずスーパーに寄って一番安いミネラルウォーターを買ったところ、失敗した。軟水でも硬水でもなく粘水だったのだ。飲むと身体の先端の方が粘土化してしまった。指先を外して指先を造形しなおして指先にくっつける。という作業を二十回繰り返す頃には随分慣れて、以前の指先よりも細長くしたり、ナイフのようにとがらしたりしてみた。

 水を一日三、四リットル、いや、五リットルか六リットルだったか。とにかく医者に言われているから常に水を持ち歩いているのに、出かける際にいろいろ忘れ物をしていたので失敗したのだ。もしかしたら十リットルだったかもしれない。実際には二リットルくらいしか飲んでいない。

 硬水は身体が硬くなって何もかもを弾いてしまうから苦手だ。格闘家の攻撃を無効化できるのは良いことだが、格闘家と戦う機会がない。軟水は身も心もふにゃふにゃになる。うまく立てなくなる時もある。そういう時は立たなくていい。柔らかくなった骨は骨折しにくくて、軟水を飲んでいる間は骨折をしたことがない。飲んでいない時も骨折をしたことはないけれど。人生最大の怪我は捻挫だった。捻挫した際に飲んでいたのは麦茶だった。

 不味い粘水を飲み干してしばらく経つと、身体の先端の粘土化も収まった。ナイフみたいにとがった指先はそのまま固まってしまった。より強固にするために硬水を飲んで硬質化すれば、ダークヒーローのようになれるかもしれない。

 そんなことを考えていたせいか、目の前に体長三メートルほどの怪獣が現れて、悪事を行い始めた。信号無視をして横断歩道を渡ろうとしていた。当然突っ込んできた軽自動車をよけきれずに吹っ飛ばされていた。運転手は慌てて飛び出したが、撥ねたのが怪獣だと分かるとすぐに去っていった。

「大丈夫?」私は目玉が三つで手足が三本ずつあって、とにかく「三」がコンセプトっぽい怪獣に手を差し伸べた。
「すまない」といって私の手を握ろうとした怪獣の皮膚に、先ほどとがらした指先がずぶずぶとめり込んでいった。
「痛っ」
「ごめん」
 ダークヒーローならここで謝ったりはしないのだろうな。でも人生最大の怪我が捻挫だし、と一人蒸し返す。
「怪我はない?」
「今できた」軽自動車に撥ねられても流れていなかった血が、私の指先を刺したところから流れ始めている。でも交通ルールを守らない方が悪い。

 私はそれ以上誰かを傷つけたくなくて、どこへ行って何をする予定だったか忘れてしまった用事を放り出して家に帰る。作り置きの水を飲むと、指先のとがりも治まった。粘水は二度と買わない、と誓う。

 でもやっぱりダークヒーローになりたくて、翌日も粘水を買って、全ての指をとがらしてみた。昨日会った怪獣に遭遇した。
「こんにちは」
「昨日はどうも」
 私は全ての指をとがらせた手を怪獣に差し伸べた。全部刺さってくれないかな、と思ったのだ。怪獣は困った顔をしていた。しばらく対峙している間に信号が三回変わった。
「それでは。仕事がありますので」そう言って怪獣は去っていった。差し伸べた私の手は誰にも握られず、誰も傷つけないままでいた。

(了)

 随筆のように書く掌編小説集的な。


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泥辺五郎
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