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原稿用紙を一行ずつ破って燃やす話【#冬ピリカ応募作】
世界一好きな作家が亡くなった。
最愛の人だった。
長年連れ添った妻だった。
予想通りに、化けて出た。
「本を全部燃やして」と妻は言った。
無茶な話だ。著作数は百冊を超える。
「生原稿だけでもいいから」
妻は肉筆にこだわった。丁寧に文字を書き、一文字を書いている間に次に書く一文字を考えているのだと言っていた。「一文」ではなく「一文字」だった。そのためか手直しが少なく、締め切りに遅れたことはない。
「嫌だ」と断った。
「原稿含めて、愛してた」
「燃やしてくれなければ、死ぬまでつきまとうから」
「望むところだ」
「私の書いたものは、全部嘘だったんだけど」
「知ってる」
駄目な夫への歪んだ愛の物語も、大不倫小説も、若者への叱咤激励も、全て嘘っぱちだとは知っていた。作家の真の姿は、臆病で、出不精で、愛情は夫にではなく常に創作物に向けられていた。その次に子供達へ。
「長年書き続けてきた文章が私にまとわりついて、身動きが取れないの。天国へも地獄へも行けなくて」
目を凝らして見つめてみれば、薄い墨汁で書かれたような文字が妻の周囲をぐるぐる回り続けている。自分の書いた文章の鎖で縛られている。何十年も書き続けてきたのだから、最低でも何十年は縛られる量ではあるわけだ。
「一晩に少しずつ、でいいかな」
「ありがとう」
私は一晩に一枚ずつ、肉筆で書かれた原稿用紙を燃やしていった。一枚を一行ずつ破いて、燃やす時間を長引かせた。原稿を燃やした明かりが灯っている間、妻と二人で話し込んだ。妻が文章を書いている間中、放っておかれた時間を取り戻すように。妻はうまく計算出来なくなっているようだが、そのペースでは、私の寿命が尽きるまでに全ての原稿を燃やすことは不可能だった。
生涯書き続けてきた妻の魂を少しでも休めたくて、作品の話は避けた。子供達の幼い頃の話や、他愛もない話を、毎晩語り明かした。妻が生きていた間に、私はそのようにして彼女と二人の時間を過ごしてみたかった。
死者でありながら、会話の最中に妻は眠り込み、一日は終わった。執筆の終わりも、万年筆を握りながらの眠りだった。亡くなる時でさえも。家族を食わせるため、読者を満足させるために、妻は文章に命を与え続けていた。髪が邪魔だと言って私に刈らせた。私の作る料理を何でも美味しいと言って食べてくれた。
原稿のストックがなくなる前に、私の寿命が切れた。もう妻の名前は世間から忘れ去られていた。妻を縛る文章の鎖はまだ切れないので、残りの原稿は、実家に戻って暮らしていた子供達に託した。私達の仏壇には線香ではなく、原稿を燃やす明かりが捧げられる。
「生前、もっと話しかけてくれたら良かったのに」とある時妻が言った。
「執筆の邪魔をしたくなくて」
「いつでも止めたのに」
そうは言うものの、妻の青白い指は、死んでからもずっと虚空に文字を書き連ねている。
(1179文字)
原案:自作俳句物語作品番号0054(季語:炉話)
一行ごと燃やして炉話終わらせず
作家が死んだ。供養に著作を全て燃やせと言う。断ると死靈となりまとわりついて、しつこく燃やせ燃やせと言う。あなたの本が好きだから嫌だと断るが、自ら火に入れだした。私は奪い取り、せめて、と一行ごと破って燃やした。その間長い話も出来た。
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