「指の綾子」考 #春ピリカ応募
昔書いた掌編小説で「指の綾子」という話がある。題名は覚えているのだが、内容をさっぱり思い出せない。「綾子」というのは、当時私の勤めていた食品工場の同僚の名前である。彼女は撹拌機に巻き込まれ、指だけを残してその他の体を粉々に砕かれた。親しい同僚の凄惨な最期を見た私は気が動転してしまい、綾子の指を隠し持って早退した。
その後医療の進歩と世界的な倫理観の崩壊と私の借金と引き換えに、指だけの綾子は培養技術により全身を復活させ、私の妻として家にいる。「事故」「工場」「切断」といった単語に敏感に反応してしまう綾子に「『指の綾子』ってどんな話だったっけ?」などとは聞けない。彼女の全身が指に馴染むまで五年ほどかかり、記憶の方も生前の彼女と辻褄が合うようになったのは最近のことだ。
まだ触れてもいなかった綾子の指についての妄想を書いた気もする。届かなかったラブレターだったのかもしれない。
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ここから作者の同居人である私、綾子が代筆致します。確かに私は事故に遭い指を落としましたが、全身を砕かれるようなことはなく、命は落としませんでした。当時同僚であった彼は私の指を持ち出して逃走した後、職場を解雇されました。
事故は私の不注意と偶然からのもので事件性はなく、夫は逮捕されたわけではありません。しかし気が触れたのか、私の指を「綾子」と呼び、退院後の私が彼の家を訪ねても、話しかけるのは指の骨に向かってだけでした。そのようにして執筆された「指の綾子」は妄執の産物であり、グロテスクな童話のようなものであり、ラブレターではありませんでした。その後彼は指から私の体を生やし、そんな私と結婚生活を営む、という妄想の世界に逃げ込みました。
私はそんな彼の指を愛してしまいました。指以外は必要ありませんでした。彼の指を切り落とし、残りの体は捨てました。
医療の進歩と世界的な倫理観の崩壊と私の貯金と引き換えに、彼は指だけで生きています。彼の書く物は私小説とファンタジーが混じり合った話が多いのですが、出てくる女性は「指の美しい人」に固定されています。声を持たない彼は、いつまでも文章を打ち続けています。
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いつの頃からか、私は執筆に対する集中力が非常に長く続くようになった。スマホも触らず食事も仕事もせず、パソコンに向かって文章だけを打ち続けている。書き上げた小説を読み返すこともせず、新たな話を書き始める。まるで文章を打つ指だけになって生きているような感覚である。私の指は長いこと綾子を抱いていない。他の誰にも触れていない。それでいて常に幸福感に包まれている。まだまだ書くことはある。書き続けることだけが私の生き甲斐である。何だか同じ所をいつまでもぐるぐると回り続けている気がする。
綾子について書こう。綾子の指について書こう。昔「指の綾子」という掌編小説を書いたのだが、内容がさっぱり思い出せない……。
(了)
1196文字。
実際の「指の綾子」という掌編小説のデータも、古いパソコンを漁れば見つかるはずなんですが、なかなか動けません。そして内容は実際思い出せません。
個人賞、受賞しました。
副賞として朗読もしていただきました。
出来上がるまでの話を書きました。
過去のピリカグランプリ掲載作。
ピリカ文庫より。
入院費用にあてさせていただきます。